北海道で、畑を耕さない「大地再生農業」を実践するレイモンドさんが、3歳の孫のあやめちゃんに綴る物語。150年前に、ご先祖たちがウクライナからアメリカへ持ってきたターキーレッド小麦は、またたく間に全米に広がった。しかし、時代とともに姿を消してしまう。開拓民が草原で農耕を始めて約70年後の1930~40年代、土壌の劣化に伴う激しい砂嵐が頻発するなか、農家は工業的な農業への転換を迫られていた──。
レイモンド・エップさんが書いた原文(英語)はこちらでご覧いただけます。
レイモンド・エップ/荒谷明子訳
あやめちゃん
何をつくっているのかな? ふーん、ケーキか。なかなかおいしそうだ。できあがったら一口ちょうだいね。
君は大きくなったら何になるのかな? お母さんみたいに素敵なパンや料理を作る人になるのかな? お父さんもなかなかの腕前だからなぁ! でも、本当に君が大人になったときに何をするかは、これから君が出会ういろんな出来事や体験から形づくられていくんだろう。
今回からは、ジイジが辿ってきた道のりをお話ししよう。
生まれ育った村で農家になる……
あやめちゃんくらいの年頃から二十歳になるまで、ジイジは生まれ育った村で農家になる人生以外、考えたこともなかった。どうしてかって? ジイジのおじさんたち、おばさんたちは一人残らず村で農家をしていた。53人もいるジイジのいとこたちは全員村の小中学校と高校を卒業したし、みんな同じ教会へ通っていた。だからジイジも、自分の人生や日々の営みの根っこはいつもずっと変わらずそこにあるだろうと思っていた。
高校生のときは、農業クラブの部長を務めたり、州から農業賞をもらったこともあるよ。そんなこともあって高校卒業後はネブラスカ州立大学の農学特待生として学ぶことができた。一生懸命知識を深める努力をするのは楽しかった。でもね、だんだんと大学で教わる内容に疑問が生まれるようになった。はっきりと言葉にすることはできなかったけれど腹の奥で何かが違うぞ、という感覚があったんだ。
規模拡大するか? 農家をやめるか?
大学の教授は「農業はビジネスだ。土地と労働と資金という道具を使って農場の利益を最大まで高めよ」と教えていた。この教授の試験の答案用紙には、教えられたことを書かなければならない。でも、実際自分がそんな考えで農業をすると想像したら、虚しさを感じずにいられなかった。それまでのジイジの人生でとても大切だと感じていたことは、例えば病気がちだった叔父さんとその家族のために手助けしたり、近所の農家が困っていたら農作業を手伝ったりしたことだったからね。
1970年代に農務長官だったアール・バッツは、「規模拡大するか? それとも農家をやめるか?」とか、「農地の端から端まで作物で埋め尽くせ!」なんていいながら、少しでもたくさんの作物を生み出すように農家に迫った。君のひいおじいちゃんもそれに従って、自家用に飼っていた豚や牛を売り払って、トウモロコシの生産に集中できるように農地を整備した。そして、もっと農地を買って穀物の倉庫を増やした。
でもね、村のみんなが土地を増やせたわけじゃない。増やせなかった人は離農していった。村には農業以外の仕事があまりなかったから、農家をやめた人たちの多くは他の仕事が見つからず、村を離れなければならなかった。ジイジの友達のお父さんは、土地を失ったショックで病気になり、51歳でこの世を去った。
さらに、化学肥料に含まれるチッソや除草剤が、井戸水を汚染することもわかってきた。利益を優先していたら、土が健全に機能するために心を砕くことも、環境や人の健康を守ることもないがしろにされてしまう。
別の道を探ろうとする村人はいなかった
土地を大切にしながらみんなが共に生きていく方法を考えなければならない。土地は作物を生産するだけじゃなく、そこに住む人の暮らしが根づいている場所でもあるんだから。ジイジは有機農業に転換することが大事だと感じて、家族を説得しようとしたけれど、有機農業ではペイできないといわれてしまった。
あっちの道もこっちの道も行き止まりのように感じたよ。みんなが進んでいる農業の道を辿れば、コミュニティは破壊されていく。それは同時に土壌を貧しくする道でもある。村には若いジイジの訴えに共感して、別の道を探ろうとする大人は誰もいなかった。
大学1年の夏休みは、実家に帰ってトウモロコシの収穫を手伝った。その後も大学に戻る気持ちになれなくてぷらぷらしていた。気づけば、村に残って農業をしている若者は本当に少なくなっていた。全員が故郷で農家になった親たちの世代から、明らかな変化が起きていた。
そんなあるときのこと。テキサスのウィチタフォールズで起こった大きな竜巻による災害支援のため、教会から男たちが出かけていくことになった。興味を惹かれてジイジも参加することにしたんだ。このことをきっかけに自分の人生が大きく変わっていくことになるとは、そのときはまったく想像していなかった。
土地と人、人と人とのつながり
幅2km、長さ18kmにわたって町が破壊される大きな竜巻だった。現地に到着するとすぐに、支援員の人が街を案内してくれた。それは今まで見たこともない唖然とするような光景だった。どの家も土台から引きちぎられて何もかもが吹き飛ばされていた。文字通りすべてを失ってしまった人たちの思いを想像しようとしたけれど、無理だった。そこまでの貧しさに出会ったのは初めてだったんだ。
そして、都会では、家が隣同士立ち並んでいるのにもかかわらず、人と人とのつながりがほとんどないことを知った。ジイジの育った村では、必要としている人に手を差し出す大切さを小さな頃から教えられる。つながりがあることで互いに安心して暮らすことができた。そんな故郷の村でもいま、農業政策の変化に伴ってコミュニティの姿が変わろうとしている。
テキサスの都会とネブラスカの農村というまったく違う二つの地域にあって、どちらも土地とのつながり、暮らしに根づいた人と人のつながりが崩壊していくようすを目の当たりにして、ジイジの頭のなかはたくさんの疑問でいっぱいになった。
人生の大切な分かれ道
テキサスでの1週間は、現地の人たちとの触れ合いと街の復興作業に追われつつ、あっという間に過ぎていった。家に帰ってから、今後自分はどうすればいいのか悩んだ。大学に戻るか? テキサスに戻るか? ジイジがその問いを投げかけたとき、ひいおばあちゃんはしばらく黙ったあと、「私には答えられない。それは自分で決めなくてはならないよ」といった。
人生の大切な分かれ道を、ジイジはそのとき初めて自分で選んだ。そして、テキサスへ戻った。選ぶことで、自分が形づくられていくことも知った。
でも、結局、テキサスでのジイジの復興作業は2週間しか続かなかった。アメリカ政府が突然、平和時の徴兵登録を発表したんだ。つまり、アメリカが戦争をするときが来たら、兵士として戦う若者のリストを作ろうということだ。ジイジのところにも登録のためのハガキが届いた。戦争が起こったら、就職もせず大学を休んでいる自分のような人がまず戦線へ送られるだろう。リストに登録することを拒否して国から訴えられる友人もいた。自分は一体どうしたらいいんだろう。
ジイジはさらなる大きな決断を迫られることになったんだ。
(北海道長沼町)
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