谷口吉光
2025年3月10日発行予定の『みんなの有機農業技術大事典』。「地球にやさしい農業がしたい」という思いを持つすべての人に読んでもらいたくて、鋭意編集中です。この連載では、『みんなの有機農業技術大事典』にご寄稿いただいた著者の方々に、内容の一部をご紹介いただきます。雑誌・Web同時連載の1回目は、事典の記事でもトップバッターである元秋田県立大学の谷口吉光さん。
『みんなの有機農業技術大事典』発行にむけた思いは、2024年10月号「主張」をご覧ください。
(1)有機農業とは何か
有機農業とは何だろうか。それを一言で説明するのは難しい。「農薬や化学肥料を使わない農業」が有機農業だと思っている人もいるかもしれない。確かに、有機農業推進法では「化学肥料、農薬、遺伝子組換え技術を使わず、環境への負荷をできる限り低減した農業」と定義されているから、そう思われるのも無理はない。
でも「有機農業=無農薬・無化学肥料」というとらえ方は、有機農業のほんの一部分だけを取り上げたもので、有機農業の本質をとらえてはいない。たとえば「人間とは何か」と聞かれて、人間は二足歩行するという事実だけをとらえ「人間は2本足で歩くものだ」と答えるようなものである。有機農業は、もっと広いものだ。
その証拠に、この事典の目次を見てほしい。生物多様性、消費者、小農、有機給食、不耕起、カバークロップ、輪作・連作、微生物資材、自家採種、畜産など本当に幅広い項目がカバーされているだろう。農業技術に関する項目が多いが、自然や社会に関する項目も載せてある。これらがみんな有機農業に含まれているのだ。
なぜ、有機農業はこんなに幅広い内容を含んでいるのだろうか。それは、有機農業が近代農業に取って代わる大きな農業の体系だからだ。
(2)近代農業に代わる技術体系
2021年5月に農林水産省は「みどりの食料システム戦略」(みどり戦略)を策定したが、そこには2050年までに農業から出るCO2を実質ゼロに削減、化学合成農薬の使用量を50%削減、化学肥料の使用量を30%削減、有機農業の面積を全農地面積の25%に拡大という目標が書かれていた。近代農業(慣行農業)の常識を覆す、驚くような目標ばかりだ。
近代農業では「立派な農産物をつくるには農薬と化学肥料は必要だ」といわれてきた。だからみどり戦略で農薬と化学肥料を大幅削減するということは、「農水省は近代農業からの脱却を宣言した」のと同じことである。
それでは、これからは何を頼りに農業をすればいいのか。多くの農家は悩んでいるだろう。農薬や化学肥料を減らす個別技術はたくさんある。しかし、一人ひとりの農家にとって、栽培技術は単なる個別技術の寄せ集めではないだろう。「体系」といえば大げさかもしれないが、一つひとつの技術がお互いに有機的に連携して「体系」をつくっている。そのなかのひとつの技術を変えれば、それは体系全体に影響する。
そして技術体系の背後には「どんな農業をしたいのか」「どんな作物をつくりたいのか」という農家の考え方(これも大げさかもしれないが「思想」や「哲学」)があるはずだ。その哲学が土台となって、技術の体系があり、作物があり、取引先があり、経営があるはずだ。
農薬や化学肥料を自由に使えないとなれば、施肥や防除の体系を根本的に見直さなければならない。収穫する作物の品質(見栄えや味)も変わるだろう。取引先はそれを認めてくれるだろうか、消費者は受け入れてくれるだろうか。経営の仕方もこれまでと同じではすまなくなる。このように、多くの農家にとって慣行の近代農業から転換するということは、農業の仕方全体を見直すことにつながるのだ。
みどり戦略が突き付けているのは、こうした問題である。一言でいえば、新しい農業技術の体系を、農家一人ひとりが作り上げていかなければならないのだ。そのときに参考になるのが有機農業、それも「農業技術の体系としての有機農業」である。先ほど「有機農業は無農薬・無化学肥料だけではなくもっと広いものだ」といったが、それはこうした意味である。
今いった「農業技術の体系としての有機農業」という言葉は長いので、これを「有機農業のパラダイム」と言い換えることにしよう。「パラダイム」とは、「ひとつの時代を支配するような根本的な考え方の枠組み」という意味だが、農業の世界では、これまで農業関係者を支配してきた「近代農業のパラダイム」から「有機農業のパラダイム」への転換が始まっている。この事典は、これからの時代の農業の方向性を示す羅針盤として役立つはずだ。
さて、この先は「有機農業のパラダイム」がどんな特徴を持っているかを説明していこう。
(元秋田県立大学)
著者紹介:谷口吉光(たにぐち よしみつ)
元秋田県立大学教授。専門は食と農の社会学。日本有機農業学会の元会長で現監事。農水省が提唱している「みどりの食料システム戦略」についても分析・発信している。編著書に『有機給食スタートブック』(農文協)など。
『みんなの有機農業技術大事典』のご案内
本記事「有機農業のパラダイム」が載っている第1巻第1部では、有機農業についての総論が大充実。第2部からは具体的な技術を紹介しており、チッソ固定細菌や生きものとの農業についても収録。第3部以降は不耕起栽培やカバークロップ、天敵など具体的な技術が続く。身の回りの資源の使い方(第3部の項目参照)や、納豆や石灰を使った防除、ヒートショックなど『現代農業』の真骨頂である農家が培ってきた技術を多数紹介。
第2巻では作物ごとの詳細な技術について、農家のワザや経営に迫りつつ、それを支える研究事例とともに紹介。
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