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あああ

【北海道でリジェネラティブ(大地再生)農業を実践】メノビレッジとご近所さん|レイモンドからの手紙(11)

北海道で畑を耕さない「大地再生農業」を実践するレイモンド・エップさんが話題です。そのレイモンドさんが、孫のあやめちゃんに綴る物語。

この記事は、『現代農業』に連載中の期間限定試し読みです。レイモンドさんが書いた原文(英語)もこちらからご覧いただけます。

レイモンド・エップ/荒谷明子訳

息子の和共を抱く筆者と、ぼのちゃん

あやめちゃん

 ジイジは今、アメリカのインディアナ州にいる。19年前に学んだ懐かしいメノナイト神学校にやってきて、この手紙を書いている。家族で家を借りて8カ月間一緒に過ごした楽しい思い出がよみがえってくるようだ。そのとき君のお父さんは小学6年生でこの街の学校に通っていたんだよ。

 さて、今回はそこからさらに11年遡ること1994年の暮れ、君のお父さんをお腹に宿したぼのちゃんとジイジが日本にやってきたときのお話をしよう。

冬の寒い日の殺伐とした風景

 ジイジたちが日本へ来る決心をした頃、もうすでに「メノビレッジ」という農場の名前や場所は決まっていた。退職した人たちやハンディキャップのある人たちのコミュニティを始めようと、日本のメノナイト教会の会員有志によって立ち上げられようとしていた。でもね、実際に日本へやってきてみると、設立支援しようとしていた会員のほとんどは離脱してしまっていた。なぜかって? それぞれいろんな事情があったのだと思うけれど、自分たちの財産を託すほどには、日本の農業の未来に希望が見えなかったからじゃないかと思う。ジイジとぼのちゃんにはお金がなく、残った二つの家族がメノビレッジ設立の資金を支援してくれることになった。

 初めて農場を訪れた日のことをジイジはハッキリと覚えている。冬の入り口の寒い日で、夜に降った雪が地面を覆っていた。秋小麦がところどころ雪を突き破って顔を出していたが、それ以外は黒と白と灰色に包まれ、殺伐とした風景だった。じつはこの農場のおばあちゃんが、数カ月前に農薬を飲んで自殺していたと聞いたのは、もっと後になってからのことだった。先祖から託された居場所を失う悲しみ、農場を売っても還せないほどの借金への不安が、彼女を失意のどん底に突き落としたんだ。

 あやめちゃん、人生の船を漕ぎ出したばかりの君にこんなお話を聞かせるのは、ひどいことだとわかっている。人が生きるための食べ物を育てる農業という仕事に未来が見出せないなんて。生きる希望を失うほど大変な思いで従事しているなんて。そんな世界を君に遺したくないと心から願う。

みんなと違う農業を追求してほしい

 ジイジたちはメノビレッジで、まずは若い人たちに農業を学ぶ研修の場を提供すること、食べ物を通して都会の人たちと関係を結んでいくこと、農場を訪れる人をもてなし食べ物を分かち合うことを目指していこうと決めた。最初の冬は何日もかけて住宅の腐った床や壊れた壁を修理した。週末には札幌の教会のメンバーたちが掃除やペンキ塗りに来てくれた。一緒に働いたり、昼食のおにぎりを分かち合ったり、ちょっとした困難もジョークに変えて大笑いしたり、今では楽しい思い出だ。誰かが来てくれるたびに、その人の存在がその場を明るく変えていくようだった。

 そんなある日、家の中で1人で作業をしていると、玄関のドアをノックする音がした。この辺りに知り合いはいないし、誰だろうと思いながら出てみると、年配の日本人男性が2人立っていた。彼らは驚いたことに英語で“Hello. How do you do?(こんにちは。はじめまして)”といった。まったく知らない人たちだったけれど、“Come.(おいで)”と誘われるままについていった。

 2人は仲野勤さんと高橋昭さんといって、2軒隣の果樹園の人たちだった。勤さんは1950年代初頭にカリフォルニアで農業研修生をしていたそうで、その年代の日本人としては珍しいことだが、英語が話せた。さらに昭さんの奥様、高橋康子さんは通訳ができるほど英語が堪能だった。彼らはジイジに、日本についてどう思うか、農業やしきたり、とくに仏壇や神棚についてどう思うかひとしきり質問した後、笑顔でこういった。

 「ここの人たちと同じような農業をするつもりなら、お国に帰ったほうがいい。あなたにはここでみんなとは違う、魅力ある農業を追求してほしい」

 日本では、他所から来た人はその土地のやり方に順応することが求められていると思っていたから、驚くばかりだった。だけど振り返ってみると、自分のやっていることに自信がもてなくなったとき、どの道を行くか迷ったとき、その後の人生に幾度も励ましをくれた大切な言葉となったよ。

ご近所の偉大なる先輩農家たち

 仲野勇二さんはメノビレッジのすぐ隣の果樹農家だ。本人は生まれてすぐにクリスチャンにさせられて恨んでいるなんていっているが、キリスト教聖公会の一員で、長い間多方面にわたって惜しみない支援をしてくれている恩人だ。勇二さんは、言葉も風土も馴染みがない土地で農業を始めるジイジのために、近所の農家を呼び集めてサポートチームをつくってくれた。

 近藤清さんはジャガイモの先生、上坂《うえさか》一男さんは米づくりの先生となってくれた。山崎太次男《たじお》さんは、農民のお手本といったらいいだろうか。畑に山崎さんの姿を見かけたら、何はさておきすぐに行って話を聞くようにしていた。彼は天気を読むことに長けていて、農作業の最適なタイミングを知っていたし、いつも共にいる奥さんとは素晴らしいチームワークで、最小限の労力で信じられないほどの仕事をやりきっていた。彼らの畑は完璧に手入れが行き届いた庭のようだったよ。増田宏さんは、ジイジたちがいつビニールハウスを覆うかを察知する不思議な能力があってね、毎回どこからともなく現われ、苦戦するジイジたちに救いの手を差し伸べてくれ、来たときと同じようにいつの間にか帰っていくのだった。

ご近所の山崎さん宅で新年会。写真左はイネの先生の上坂さん
ご近所の山崎さん宅で新年会。写真左はイネの先生の上坂さん

居場所と仲間を得て、大地に根を張った

 そんなメノビレッジの1年目に君のお父さんは生まれた。初めて自分の腕に抱いたときのことを、今でも覚えている。ジイジの口から最初に出てきたのは、“Peace be with you.(平和があなたと共にありますように)”というイエスの言葉だった。キリスト教の礼拝でよく言い交わされる挨拶だ。ジイジたちは、イエスの平和がいつでも彼を包んでくれるようにという祈りを込めて、その子を「和共」と名づけた。メノビレッジに集まる人たちからも近所の人たちからも愛されて、いろんな野菜の名前を覚え健やかに育った。

息子の和共を抱く筆者と、ぼのちゃん
息子の和共を抱く筆者と、ぼのちゃん

 知っている限り、長沼で農家になった外国人はジイジが初めてだったと思う。来たときは、ほとんどまったく日本語が話せなかった。背が高すぎて人混みに隠れられないし、茶色い髪も青い瞳も、明らかにジイジが日本人ではないことを語っていた。そんなふうに「違っていること」で注目されることが多かったけれど、何よりも大切なのは、「やりがいのある働きの場」や「安心できる居場所」としてメノビレッジが育っていくことだと思っていた。その意味で、ぼのちゃんは素晴らしいパートナーだったし、教会の方々が、ボランティアや訪問者をおいしい食事やあたたかい態度でもてなしてくれたことが、メノビレッジの土台をつくっていった。ジイジのそれまでの人生には、叶わなかったと感じた夢があったり、報われなかったかのように見えた努力や、諦めざるを得なかった大切な居場所もあった。そんなジイジに神さまは、想像をはるかに超えた居場所と仲間を与えてくれた。この大地にジイジは根を張っていったんだ。

 あやめちゃん、君は将来タンポポの綿毛のようにふわふわと飛んで、どこか離れた場所に根を下ろすのだろうか。それともナタネの莢がはじけて種子が落ちるように、この地に根を生やすのだろうか。どんな場所に君が生きようと、大切にしたいものと出会うこと、愛に満ちた人でいること、やりがいある仕事とあたたかい居場所が与えられることを祈っている。人生を豊かにする鍵はきっとそこにあるはずだから。

レイモンドさんが書いた原文(英語)は、こちらでご覧になれます。

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