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【農家の戦争体験記】戦艦武蔵からの生還 第6話

8月15日は、平和祈念の日(終戦の日)です。今ふたたび多くの人に読んでもらいたい記事を現代農業の元編集長が選びました。1993年7月号から6回にわたり現代農業で連載された、農家・柴田庫治さんによる回想録「戦艦武蔵からの生還」です。ぜひご覧ください。

一番船倉の四二〇人

 コレヒドール島守備部隊の武蔵生存者中、下士官兵の第一次内地帰還者に選ばれた者は四二〇名であった。貨客船さんとす丸(八五〇〇t)に乗船、闇夜を幸いにマニラ港を出航した。乗り合わせた人たちは、レイテ作戦で沈没した戦艦の生き残りで皆沈没の恐ろしさを経験したものばかりで、総数二五〇〇名といわれる。

 

 武蔵の生存者は船首の一番船倉を割り当てられた。皆が膝を曲げ、それを両手で抱きかかえる姿勢で座った。狭い船倉に大勢が詰め込まれたからである。乗り合わせた皆が敵潜攻撃に怯えていたが、さんとす丸だけは敵の攻撃目標にはならぬとの風聞が船内に流れた。それは、マニラから、アメリカ人捕虜の高級将校を内地送還のため乗船させている。そのことを無線で内地に発信しているので、敵は当然これを傍受しているはずだ。さんとす丸を攻撃すれば高級将校の命はない。だから大丈夫だと言うのであった。

 

 二十四日の航海は何事もなく、ルソン島の北端を通過してバシー海峡に入り、一路祖国へと針路をとった。

 

 私は、さんとす丸に乗船してから、ブラジルに移民した兄のことが思い出され頭が冴えて夜に入っても眠れなかった。さんとす丸という船名がそうさせたのであろう。船倉の武蔵の乗員は眠りに入っている。そのため皆が曲げていた足が自然に延びて、通路も塞がり、階段近くに座っていた私は押されて居所を失い、階段に腰をかけていた。

立ち上がった巨大な火炎

 その時である。ゴゴゴオーンという底響きのする音がし、船内の非常ベルがピリピリと鳴り響いた。

 

 私は階段に腰を下ろしていたお陰で、いち早く甲板にかけ上がり、あたりを見ると、さんとす丸を護衛していた砲艦が被雷したらしく、盛んに炎上している。その明かりで二隻の駆潜艇が見えたが、今度はその一隻に魚雷が命中しドカーンという音と同時に消え失せた。

 

 さあ、大変な事態になったと思い、オロオロしていたら、さんとす丸の中央部に巨大な火炎が立ち上がり、ドドドーンという地響きと同時に大きな揺れを感じた。思わず「やられたっ!」と叫び、火の粉を避けるように頭に手をかざした。

 

 さんとす丸の最期を記した本には、中央部から船尾の船倉にいた者は皆爆死したと書かれているが、そうではなかったと思う。

 

 前に書いたように階段にいた関係で人より早く甲板に出たので、当時の状況はよくわかる。護衛艦に魚雷が命中した爆発音と非常ベルの音に各船倉から一斉に乗員は甲板に逃げ上がった。それから数分して、さんとす丸の中央部に二本の魚雷が命中したのは確かだ。この時不審に思ったのは、武蔵の生存者がいた一番船倉から人が出てこなかったことだ。不思議に感じながらも私は船首の最先端に逃げた。この時すでに前甲板は人で一杯であった。

さんとす丸で起きた惨劇

 その時号令が出た。「船倉のハッチカバーをはずして角材を海に投げろ。船はまもなく沈む。皆は角材につかまって泳ぐのだ。急げ!」

 

 かって知った船員の号令のように思う。我に帰った乗員は、船倉ハッチに渡している角材を手渡しで海に投げ込んだ。そのため甲板に四m四方くらいの大穴が空いて、そこから船内の明かりが漏れた。明かりは敵の攻撃目標になる。

 

「明かりを隠せ、ハッチにカバーをかけろ!」の号令にカバーだけをハッチに被せた。これが大きな惨劇を産む結果となった。

 

 後で聞いた話になるが、一番船倉にいた武蔵の乗員は、非常ベルの音と爆発音に驚き、一斉に甲板に出ようと階段に殺到した。このため木製の階段が外れてしまった。すぐ掛け直せばよいと思うのだが、後ろから押し寄せる人波に階段には人が重なり倒れて、パニック状態となった。このため一番船倉の武蔵の生存者は遅れて甲板に上がってきた。

 

 その時は船首甲板は人で埋め尽くされ、空いている個所は、船倉のハッチにカバーだけで覆われている部分だけだった。そこを目指して武蔵の生存者が一斉に押し寄せた。人の重みでカバーは破れ落ち、ぽっかり空いた大穴に続々と人波は呑まれて奈落の底に墜落していった。船倉から出てきた者はその状態がわからず、空いていたところへと押し寄せ、止まることができなかった。ここでも生き地獄が再現したのである。

救命ボートに必死にしがみつく

 私はまごまごしていれば船と一緒に沈んでしまうと思い、船首から飛び込もうとした。しかし船尾が沈むにつれて船首が持ち上がり、飛び込める状態ではなかった。その時誰かが、「船首は危険だ、船尾に回れ」と叫ぶ声を耳にした。私はハッと気付いた。武蔵沈没のときも沈んだ方から海に入るのが一番安全であると感じていた。

 

 私は夢中で人垣の頭の上を這うようにして船尾に辿りつき海中に入った。潮の流れに身を任せるように泳いでいたら、一隻のボートを発見し、泳ぎついて、船べりに手を掛けた。さんとす丸の救命ボートと思われたが、満員で、乗せてもらえそうもない。次々と漂流者がボートに辿りつき、船べりにつかまった。

 

 つかまった人の肩にまた人がつかまり、鈴なり状態となった。ボートに乗っていた人からは船べりから手を離せ、ボートが転覆するぞ、と怒声がかかる。私はどんなことがあってもこの手を離すまい、離せば死ぬのだと思い、必死でしがみついていた。

 

 バシー海峡は波のうねりが高く、ボートは木の葉のように揺れる。そのためかつかまっている人たちが減り、私を含めて二、三人となったのでボートに乗せてくれた。

「生き残るとは悪運の強い奴だ」

 さんとす丸の沈没は二十五日午前一時とされている。ボートに乗った約三〇人がきしん丸という小型輸送船に救助されたのが、同日一四時頃であった。

 

 きしん丸はエンジン故障で船団から外れ速力四ノットしか出ず、夜は島陰に停泊し、昼は島伝いにマニラに火薬類を積んで航行中とのことで、皆は「助かったと思っては困るぞ」と言い渡された。幸い、三日後内地に帰る駆潜艇に乗り移り、台湾の高雄港に到着した。

 

 さんとす丸沈没により、四二〇名の武蔵の乗員は生存者一二〇名で、死者は三〇〇名という悲惨な結果であった。

 

 高雄に上陸後、生存者は各分隊の先任下士官に届け出るよう通達があり、私は、「柴田は無事生存できました」と報告した。そしたら先任下士官から「おまえはどこまで悪運の強い奴だろう。役立たずの兵のくせにさんとす丸でも生き残るとは……」と怒鳴りつけられた。

 

 先任下士官のもとには、死亡した下士官名が次々と報告され悲痛な思いで胸が一杯だったのだろう。そこへ最下級兵士のわたしが、のこのこと現れ、私は生きていましたと名乗り出たので、癇癪(かんしゃく)玉が破裂したのだろう。しかし、私にすればあんなにも必死になり苦労して生きたのに、生きたことが悪かったように言われたことに、強いショックを受けた。

 

 高雄からは、さぬき丸という船に乗り、無事内地に着き、横須賀海軍航空隊に勤務し、終戦を迎えた。

戦艦武蔵と大規模農業

 この連載も最終回となった。

 

 下級兵士として戦争を体験した私は、私の目に映ったありのままを書くことによって、あの戦争とは一体なんであったろうか、ということを読者の皆さんと共に考えてみたい、そんな気持ちで書いたつもりが、舌足らずのところが多く、申し訳なく思っている。

 

 最後に、戦艦武蔵が百姓の私たちに身をもって教えてくれたと思っていることを記したい。

 

 武蔵は大鑑ゆえにその最期が悲劇的であった。全長二六三m、幅三八.九mは敵側の攻撃目標としては好都合で、魚雷・爆弾のほとんどが命中した。これに引き換え、右へ左へと避雷運航をしながら撃つ砲弾には当りがなかった。巨大なものは守勢に立った時弱点をさらす。大規模農業も同様ではなかろうか。天候災害、自然災害の特に多かった今年、その感が強い。

 

 また大鑑は乗組員二四〇〇人の大所帯となり、同じ艦内でありながら主砲関連分隊をエリート派とし、機銃分隊等を蔑視する風潮を生み、同艦内でありながら融和を欠いたのも事実である。さらに不沈戦艦との思いが将校の立身出世主義を生み、艦が運命共同体の場であるとの認識を忘れさせ、醜い場面もさらした。沈没に対する心構えもなく、最期の時は適切な処置もとれず多くの戦死者を出す結果となった。

 

 農協合併が農協の生き残りには役立つかもしれないが、私たち百姓の生き残りには何の役にも立たないと思うのは、私のこうした経験から生まれた発想であろうか……。

 

 中国の諺に「人間万事塞翁《さいおう》が馬の例え」というのがある。禍福はあざなえる縄の如し、という意味だと聞く。

 

 出征の祝酒を税務署の役人に押収される不幸に合い、それがきっかけとなり不沈艦に乗り、生きて帰ろうと決意した。そのための手段として、軍務に励み、海軍省勤務や砲術奨励賞を受ける幸いを得た。しかし不沈艦と思って乗った武蔵は激戦の末沈められ、二三九九名中最後まで生きて帰還できたものわずか四三〇名であった。私は数字どおりの九死に一生を得て生存できる幸運に恵まれ、戦後百姓として七十余年の人生を歩いてきたが、武蔵の数少ない生存者であることを意識し過ぎ、農業規模の拡大を計り、手痛い挫折を味わった。しかしそのことで、人の情を知り、人生の奥深さを教えられる貴重な体験をしたと思っている。

 

 今後いかなる禍福の道程を辿るかわからないが、残り時間は少ない。ただ、その中で私が今、農業に役立つ技術開発にと真剣に取り組んで研究しているものがある。それが真に百姓のために役立つものと確信を得た時には、再び読者の皆様と語り合える幸いな日もあろうかと思う。

 

 今年は戦艦武蔵沈没による戦死者の五十回忌に当たる。心から英霊のご冥福をお祈りして終わりとしたい。

 

 (参考文献に古賀繁一氏の「古い思い出」(非売品)を使わせていただきました)

【絵】貝原浩

*月刊『現代農業』1993年12月号(原題:戦艦武蔵からの生還(6))より。情報は掲載時のものです。

柴田 庫治 しばた くらじ

1922年秋田県羽後町生まれ。故人。1943年、海軍に徴兵される。復員後、農業を営むかたわら、長年にわたり現代農業に寄稿。イナ作名人としても知られ、さまざまな農業技術の開発に没頭した。現代農業1993年7月~12月号に自らの戦争体験をまとめた「戦艦武蔵からの生還」を連載。(写真:赤松富仁)

戦艦武蔵からの生還

●重油の海に漂いながら●出征を祝う酒宴に土足のドブロク摘発員●国のために死ぬことはない庫治、必ず生きて戻れ●ブラジルに渡った兄との約束●秋田弁丸出しの従兵●海軍砲術学校測的科

●不沈戦艦「武蔵」の威容●農村不況の中での巨大戦艦の建造●レイテ作戦●主砲のバカヤロー●役に立たない主砲、艦の命運を握る機銃員

●第三射法●硝煙と赤い曳光弾●飛び散る機銃員の手足、胴体 鋤が飛ぶ、鍬が飛ぶ●巨大な水柱、沸騰する海面●血の海に丸太棒のような戦死者●人力操舵の決死隊への参加●忘れてきた日章旗と千人針

●軍力を持って海に飛び込め?●金モールの参謀たちへの不信●分隊士従兵の任命を拒否●出ない退艦命令、人雪崩となって海中へ●緩衡材となってくれた戦死者、負傷者●薄幸の戦艦、武蔵

●褌で丸太に身体を縛りつける●沈む者にホッとする自分●一世一代の晴れ舞台は重油まみれ、褌なしの丸裸●反転していた栗田艦隊●幹部に吹いた臆病風●部下を置き去りにした将校たち●たった一人の帰還

●一番船倉の420人●立ち上がった巨大な火炎●さんとす丸で起きた惨劇●救命ボートに必死でしがみつく●「生き残るとは悪運の強い奴だ」●戦艦武蔵と大規模農業

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