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【農家の戦争体験記】戦艦武蔵からの生還 第2話

8月15日は、平和祈念の日(終戦の日)です。今ふたたび多くの人に読んでもらいたい記事を現代農業の元編集長が選びました。1993年7月号から6回にわたり現代農業で連載された、農家・柴田庫治さんによる回想録「戦艦武蔵からの生還」です。ぜひご覧ください。

不沈戦艦「武蔵」の威容

 生きて再び故郷に戻り、また百姓をするために不沈戦艦に乗るのだ。そう決意し、狭き関門を突破して念願の戦艦武蔵の乗艦を果たすことができた。ここで、武蔵とはどんな戦艦であったかを説明してみたい。

 

 元三菱重工業社長で長崎造船所時代に武蔵の建造に心血を注がれた故古賀繁一氏の「古い思い出」という本には、武蔵は艦底よりマストの頂部まで高さ五〇mを超え、ほぼ国会議事堂の高さと同じであり、艦底から最上甲板まで六階建て、その上部のマスト部は一三階建てであった。艦の長さは二六三m、幅は三八・九m、東京駅のプラットホームは北口と南ロの間で二〇〇m、幅は三〇mであるから、東京駅よりひとまわり大きくして、議事堂と同じ高さの巨大な鉄鋼の構造物が海上に浮かんでいたと想像していただければよい、と言われている。

 

 また、主砲の口径は四六cm、三連装三基で合計九本の巨砲を備え、その最長射程距離は四万二〇〇〇m、その弾道は富士山の二倍の高さを越えると言われていた。米・英の主力戦艦の主砲は四〇cm砲で、射程距離は三万六〇〇〇mであった。武蔵はその差六〇〇〇mの余裕をもっており、敵の射程距離に入るまでにこれを打ち砕くことができるとされていた。また弾丸一発の重さは一四六〇kgもあり、これを一発食らえば、いかなる戦艦といえども轟沈すると聞いていた。

 

 私のもっとも関心の高かった不沈戦艦としての構造は、舷側甲板の厚さ四一〇mm、デッキアーマーと呼はれる甲板銅板が二〇〇mmの厚さであった。乗艦してみた私の目はその頑丈さに驚くと同時に、その厚さは私に安堵感を与えてくれた。主砲を覆う盾の厚さは五六〇mmもあり、敵の砲弾爆弾はすべてハジキ返すと言われた。また魚雷攻撃に備えて、舷側甲板は、タテ・ヨコに組んだ背板というもので、二重三重に防御きれ、不沈戦艦の名の通りの構造であることを改めて知った。

農村不況の中での巨大戦艦の建造

 巨大戦艦「武蔵」「大和」の建造計画は昭和九年に始まると言われている。米英両国に比べ、遙かに劣る国力でしかも農村不況の最中に、膨大な資材・人力・資金を使い、米英両国の主力戦艦を遙かに凌ぐ巨大戦艦の建造になぜ踏み切ったのだろう。その原因はパナマ運河の閘門の幅にあったと言われる。当時のパナマ運河の幅は三三mであり、米英両国の艦隊はここを通過しなければならぬ関係上、艦幅を三三mより細くしなければならない。一方島国日本はそんな制約がないから、艦幅を大きくして巨砲四六センチ砲を装備して米英両国より優位に立つという計算があった。だからもしパナマ運河の幅が四〇mあったとしたら、武蔵・大和は建造されず、太平洋海戦史は書き換えられていたと思う。

 パナマ運河の幅に関連して、大艦巨砲を選択したことは果して正しかったろうか? この事は、歴史は繰り返されるというが、いま農業が選択を迫られている、コメの関税化に備え水田農業の規模拡大化を叫ぶ農政と似てはいないだろうか。ガット・ウルグアイラウンドの場をパナマ運河に見たて、小農切捨て、大規模農業育成を大艦巨砲に置き換えたとき、かつての軍政と今の農政が二重写しとなって私の目に映るからだ。

 そのためにも、また戦艦武蔵の最期を看取った生き残りの一兵士の立場からも、その真相を伝えたい。

レイテ作戦

 戦艦武蔵が最期を遂げるレイテ作戦とは、マッカーサー元帥が昭和十九年十月二十日、七三八隻の艦艇に一六万五〇〇〇人の大部隊を乗せて、レイテ湾のタグロバンとドラックを結ぶ地点に揚陸させた大がかりな上陸作戦に始まる。この時、レイテ湾は、アメリカの艦艇と人員資材を運ぶ舟艇などで埋めつくされたといわれる。

 

 これより先、十月十七日、レイテ湾の海軍見張り所が「敵ハ上陸ヲ開始セリ天皇陛下バンザイ」と打電して連絡を絶った。これを受けて連合艦隊司令部は、シンガポールの南方三〇マイルのリンガ泊地に待機していた栗田艦隊に「二十五日未明ヲ期シレイナ湾ニ突入セヨ」と下命し、ここにレイテ作戦の戦いが切って落とされた。

 

 栗田艦隊は「武蔵」「大和」「長門」など三二隻の陣容を誇る連合艦隊の主力であった。北ボルネオのブルネイで各艦燃料の重油を満タンにして一路レイテ湾を目指した。武蔵艦上からこの光景を見る私の目にも、まさにたのもしく威風堂々の大行進に映った。しかし、それも束の間、二十三日早朝、重巡「愛宕」「摩耶」が敵潜水艦によって轟沈、「高雄」が大破する大被害を受けた。この時私は見張り当番中であったが、実にアッという間の出来事であった。双眼鏡に映る海上に黒い点々となって浮かぶ漂流者が印象に残っている。

主砲のバカヤロー

 武蔵の最期となる二十四日は来た。「敵機影ヲ認ム、配置二付ケ」戦闘準備の号令が発せられた。私は自分の持場である後部測的所に駆け上がった。測的所とは文字通り敵と味方の距離を測るところで、刻々測る数値で敵の進路、速度が判明される。これを防空指揮所に送信し、これによって主砲の照準器ともいえる方位盤が主砲に指示を与え、目標に向けて発射する仕組みとなっている。

 敵機襲来を待つ艦内は緊張で静まり返っている。

 十時三十分頃、「敵機発見、戦闘」の号令がスピーカーから流れた。測巨儀が敵機を捕捉したらしく、測的手のヨシッ、ヨシッと言う力強い声が聞こえる。

 主砲発射の号令と同時に轟音がとどろき渡り私は反動で腰掛けから振り落とされそうになった。主砲斉射の場合、耳を保護するために耳栓をすることになっていたが、これまでの訓練では、そこまでする必要もなく耳栓を忘れていた。ものすごい轟音と衝撃でしばらくは耳は何も聞こえない。耳は伝令の命なのだ。シマッタと思わず両耳を押さえた。するうちに班長で測的手の鈴木上等兵曹のどなる声がした。「主砲はなぜ続けて撃たんのだ」

 敵機は主砲の発射圏内に入り近付いているらしい。その時私の受持ちの音声電話のブザーが鳴り、私はあわてて受話器を取ると「後部測的所ハ測的値ノ送信ヲ中断セヨ」という防空指揮所からの命令である。戦いはいま始まったばかりなのに、何の事やら分からぬまま大声で復唱する。とたん、班長は顔を真っ赤にして、私の受話器をひったくり、防空指揮所に怒鳴りつけたが、みるみるその顔から血の気の引くのが見えた。主砲斉射の衝撃によって方位盤が動かなくなったと言うのである。「すぐ復旧しますか」と問う同じ測的手の問いに答えず「主砲のバカヤロー」と叫んだ。あの声はいまだ私の耳朶《だ》に残る。

 武蔵の戦闘記録には十時二十六分より二〇分間続いた敵機の第一波襲撃で魚雷一本を右舷に受け、この振動により前部の方位盤旋回不能に陥るとあるが、私の体験ではそうでなく、主砲斉射の衝撃によるものに間違いないと信じている。訓練の斉射で故障しなかった主砲方位盤がなぜ、と不審に思われるかもしれない。しかし訓練における斉射は、各砲塔一門ずつ計三門の斉射で砲塔間の弾着位置を確かめるものであったと聞く。主砲弾の数には限りがあり、決戦の時まで極力温存しなければならぬ事情があった。またマリアナ沖海戦では、武蔵が主砲の斉射によって敵機多数を撃墜せり、というがこれも誇張した報道であり、これに参加した私の目でも確かめている。戦艦武蔵が主砲九門を同時斉射したのは、この時が始めてで終わりであったと思う。

役に立たない主砲艦の命運を握る機銃員

 第二波の空襲は、正午頃からで、この時魚雷三本が左舷に同時命中した。艦が魚雷を避けようと全速航走でカジをいっぱい切ったので、艦が右に大きく傾き横転するかと思うところに魚雷三本が同時命中である。この時ばかりは艦が沈没すると思わず逃げようと身構えたことを覚えている。

 第三波襲来は十三時三十分からと武蔵戦記にあるが、私には息つく間もない波状攻撃のように思われた。それだけ敵の攻撃は熾烈を極めたのだろう。ただ不思議なことに、後部艦橋には爆弾の命中は一発もなく、敵機は前部だけを狙い撃ちしていたようだ。

 第三波が去った後、私たちの後部測的所の扉を激しく叩く音がする。班長は扉を開けろと目で合図をする。扉を開いたとたん硝煙で顔を真っ黒にした兵士が転げ込むようにして入り、「戦闘食を持って参りました。遅れてすみませんでした」と言って、おにぎりをたくさん持ってきた。それは私たち七人の後部測的所員では食べきれない数量であったから、わけを聞くと、前部測的所は階段ごと爆弾で吹き飛ばされ行けないので、全部こちらに持参したと言う事であった。艦の被害は私の予想より重大らしい。この時、通信機器はほとんど破壊され連絡のつけようもない。

 戦闘食を食べたことで気持ちが落ち着いた。班長が扉を開いたままにしておけと命令し、「よ-し、こうなったら戦闘の様子をこの目で見てやる」と言った。艦は左舷に傾いたものの、下方に見える機銃分隊は無事のようで、敵機襲来の合間を見て、弾丸補給や機銃の手入れに余念がない。その時、班長が大声で「七分隊頼むぞうっ」と叫んだ。七分隊とは機銃分隊のことで、艦のエリート序列では最下位に置かれ、主砲分隊にいつも見くびられていたのだ。しかし、いま方位盤故障によって主砲は役立たず、艦の命運を握るのは機銃員だけとは何と皮肉な現実であろう。

 第四波の敵機襲来、そして武蔵の最期となる第五波の襲来となる。武蔵はさながら地獄絵図を描きながらシブヤンの海をのたうちまわるのである。

【絵】貝原浩

(第3話に続く)

*月刊『現代農業』1993年8月号(原題:戦艦武蔵からの生還(2))より。情報は掲載時のものです。

柴田 庫治 しばた くらじ

1922年秋田県羽後町生まれ。故人。1943年、海軍に徴兵される。復員後、農業を営むかたわら、長年にわたり現代農業に寄稿。イナ作名人としても知られ、さまざまな農業技術の開発に没頭した。現代農業1993年7月~12月号に自らの戦争体験をまとめた「戦艦武蔵からの生還」を連載。(写真:赤松富仁)

戦艦武蔵からの生還

●重油の海に漂いながら●出征を祝う酒宴に土足のドブロク摘発員●国のために死ぬことはない庫治、必ず生きて戻れ●ブラジルに渡った兄との約束●秋田弁丸出しの従兵●海軍砲術学校測的科

●不沈戦艦「武蔵」の威容●農村不況の中での巨大戦艦の建造●レイテ作戦●主砲のバカヤロー●役に立たない主砲、艦の命運を握る機銃員

●第三射法●硝煙と赤い曳光弾●飛び散る機銃員の手足、胴体 鋤が飛ぶ、鍬が飛ぶ●巨大な水柱、沸騰する海面●血の海に丸太棒のような戦死者●人力操舵の決死隊への参加●忘れてきた日章旗と千人針

●軍力を持って海に飛び込め?●金モールの参謀たちへの不信●分隊士従兵の任命を拒否●出ない退艦命令、人雪崩となって海中へ●緩衡材となってくれた戦死者、負傷者●薄幸の戦艦、武蔵

●褌で丸太に身体を縛りつける●沈む者にホッとする自分●一世一代の晴れ舞台は重油まみれ、褌なしの丸裸●反転していた栗田艦隊●幹部に吹いた臆病風●部下を置き去りにした将校たち●たった一人の帰還

●一番船倉の420人●立ち上がった巨大な火炎●さんとす丸で起きた惨劇●救命ボートに必死でしがみつく●「生き残るとは悪運の強い奴だ」●戦艦武蔵と大規模農業

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