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【農家の戦争体験記】戦艦武蔵からの生還 第4話

8月15日は、平和祈念の日(終戦の日)です。今ふたたび多くの人に読んでもらいたい記事を現代農業の元編集長が選びました。1993年7月号から6回にわたり現代農業で連載された、農家・柴田庫治さんによる回想録「戦艦武蔵からの生還」です。ぜひご覧ください。

軍刀を持って海に飛び込め?

 沈没寸前の武蔵の姿を目のあたりにして、私は心細くなり、前部測的所にいる同郷出身の先輩を思い出し艦首方向に走った。その時、皆が走り回る左舷甲板に何かを背負ってたたずむ一人の兵士を見て、異様に感じ、何気なく目をやると驚いたことに同じ班の一等水平であるMさんであった。Mさんは少年志願兵で年は私より三歳下であったが、海軍に入るのが四ヵ月早かったので、Mさんとさんづけで呼び、何かと教えていただいた。

 

「Mさん、どうしたのです。その格好は?」 私の問いにMさんは、うつろな目で私を見て

 

「分隊士に俺の軍刀を持って海に飛び込めと命令され、二振りの軍刀を背負っているのだ」

 

 と答えた。そんなバカな。なるべく身軽になってこれから泳がなければならぬのにそんなことをしたら自分の身体に重石をつけて飛び込むようなものだ。従兵のMさんに軍刀を持たせ自分だけ身軽になって生きようとする分隊士に激しい怒りを覚え、

 

「Mさん、そんな軍刀は海に捨てなさい。軍刀が将校の魂であるからと言うのなら、分隊士が自分で持って泳げばよいではないか、早く捨てなさい!」

 

 この時ばかりは命令するように大声で叫んだ。しかし、Mさんは

「軍人はいかなることでも上官の命令には従わなければならない」

 力ない声でそう答えた。

 

 Mさんは帰らぬ人となり分隊士は生き残った。

 

 私の身代わりに分隊士従兵になったいきさつがあっただけに、今でもやり切れない思いに胸が一杯になる。その事情を是非とも話さなければならない。

金モールの参謀たちへの不信

 私の将校不信の念は骨の髄まで染みていた。それは、海軍省勤務の時に始まる。海軍省には軍令部一課と一二課というのがあった。一課は軍令部の参謀たちの策戦室として使用されていた。最初、会議中に伝令として電報を届けた時、第一種軍装に身を包み、胸に金モールの飾りを付けた参謀たち十数人がキラ星のごとく居並ぶ光景は、威風あたりを払うという感じで策戦室に入るのに臆したものである。

 

 軍令部一二課というのは一課の隣にあり、対潜水艦情報の電報だけを受け付けるところで、昼間は一人の参謀がおり、夜間は軍令部参謀の当直室として使用されていた。

 

 軍令部に届ける電報には、軍機・軍極秘・極秘等のランクがあり、軍機の電報は文箱に鍵がかけられ封されるが、軍機以外の電報は伝令でも見ようと思えば見られるもので、私は大抵の電報は読んでいた。戦局が日一日と不利な方向に傾いてゆくのが肌で感じられ、大本営発表とまったく逆なのに気付き、愕然として日々を送っていた。軍令部に届ける電報には緊急電報、至急電報の別があり、緊急電報の場合は、夜間でも当直参謀の閲覧を受け、電報用紙にサインをいただいてくることになっていた。

 

 ところが夜間当直室をノックして入り「当直参謀緊急電報です」と、大声で何度起こしても起きない参謀がいた。また別の参謀は上半身をベッドから起こし、閲覧の欄にサインだけして、電報は読まず寝てしまうものもいた。

 

 軍令部参謀すべてがそうであったとは言わないが、昼間金モールの飾りを付けて威儀を正して居並んでいたあの参謀達も一皮剥けばこのていたらく、何と情けない様であろう。今、前線では赤紙一枚で召集され、大陸に大洋に多くの兵士が死んでゆくというのに・・・・・・。

分隊士従兵の任命を拒否

 将校という者の裏側の汚さをいやというほど見せ付けられた私は、出征の時の税務署の仕打ちとも重なって、将校の身の回りの世話をする従兵だけは絶対やらないぞと固く心に誓っていた。

 

 ところが、武蔵に乗艦した当日、最初の命令は「柴田一等水兵を分隊士従兵に任命する」と班長から厳かに言い渡された。私はとっさに

 

「柴田は秋田弁丸出しで従兵の役は勤まりません。他のことでしたらどんな辛い役目でもやりますから従兵だけは勘弁して下さい」

 

 そう答えていた。とたんに班長の鉄拳が飛び、私は甲板に倒れていたが、あわてて起き上がり、次のビンタを受ける姿勢を整えた。命令拒否は二つや三つのビンタで済まされないことを私も心得ていた。そしたら班長は、

 

「上官の命令に背くとは許しがたいが、旨い物を食べ楽して出世の早い従兵を断るとは珍しい奴だ。今日のところはこれで許してやる。以後命令を拒否したらただで済まないと覚えておけ」

 

 そう言ってその場は直り、私は従兵役を免れ、代わりにMさんが分隊士従兵となった。

出ない退艦命令 人雪崩となって海中へ

 沈没寸前の艦の状況に話を戻そう。

 

 混乱を極める艦上で一人の同郷出身者を見つけるのは無理であったが、艦首方向に来たことで大きな発見があった。退艦に際しては艦首近くから飛び込むのが一番安全であると判断したからだ。飛び込むというよりそのまま海中に入れるように都合よく前甲板は沈んでいる。だが退艦命令が出なければ勝手に海中に入ることは許されない。艦が沈没する時は巨大な渦が発生し、駆逐艦さえ巻き込むと聞いていただけに、早く退艦して遠ざかり、渦巻から逃れなければならない。

 

 私は全身を耳にして退艦の命令を待った。しかし艦が航行を停止して三時間も過ぎたと思われるのに、日頃不沈艦だ、無敵艦だと豪語していた将校の連中はどこに消えたのか見当たらず、乗務員は右往左往するだけで軍隊の規律は失われ、騒然たる状況に包まれている。日没も近づいてきた。

 

 その時、「軍艦旗降ろし方総員整列」の令が出た。乗組員が一斉にマスト斜桁に掲揚されていた軍艦旗に注目、「君が代」のラッパ吹奏の下に、旗は降ろされた。「退艦」の命令が出たら艦首に向かって走ろうと身構えていたが、遂に退艦の令が出ないまま、艦はガクッと大きく左舷に傾いた、と同時に総員巨大な人雪崩となって一斉に海中に落下した。

緩衝材となってくれた戦死者・負傷者

 私は三番砲塔の根元に激しく衝突した。普通であれば即死か大ケガであったろうが、砲塔の根元には戦死者や負傷者が幾重にも巻き付いていて、それが緩衝材の役目をなし、無傷で海中に落下して行った。

 

 私の身体は海中深くどこまでも吸い込まれてゆく。沈むにつれて真っ暗闇の世界に入ってゆく。艦沈没の渦に巻き込まれたな。そう思ってもう助からないと覚悟をしたが、心の中は意外と平穏であったのが不思議に思う。

 

 海中深く沈みゆく私の周囲では人で埋め尽くされ手足を動かそうとしてもまったくその余地がない。黙って沈んで行くより他なかった。しばらくしてふと私の身体が浮上し始めたように感じ、慌てて動こうとしたが私の両足とも誰かに固くつかまえられ動きがとれない。気がつくと私も誰かの身体にすがるように抱きついていた。沈みゆく乗組員の集団は無意識の内に抱き合い絡み合って沈んでいったのだろう。それが浮上し始めたので、塊が解けて、皆が懸命に浮上しようと動き始めた。

 

 私はやっと海上に顔を出し、艦はどうなっているか辺りを見回した。艦が私に覆い被さるように倒れてくるのが見えた。必死になって艦から遠ざかろうと泳いだ。その時バシッとムチで打たれたような強いショックを横腹に感じた。それは艦の爆発による衝撃であったことを後で知った。この時、艦は大爆発音を発して沈没したというが、逃げることで精一杯であった私は、この爆発音がまったく記憶にない。

 

 一番心配された巨艦沈没による巨大な渦巻は、その後生存者の証言からも私の体験からも、発生しないで済んだと思っている。では、なぜ艦から落下した際海中深く引き込まれたのだろうか。それは落下の惰性によるものだろう。後甲板は最大艦幅が三八.九mあり、鉄甲板のために、負傷者の血糊でまるで鉄板に油を引いたような状態であった。この距離を滑走して海中に突っ込めば、深く沈下するのが当然であり、この滑落の惨劇で負傷したり、生命を落とした者は数百人に達すると思う。艦が横転するまで退艦命令を出せなかった幹部将校の責任は重大である。にもかかわらず、戦後武蔵の戦記には、この惨劇をドラマチックに取り扱い、幹部将校の責任を問おうとしないのはなぜであろうか?

 

 私は幸いにも落下に際し、三番砲塔の根元に衝突し滑走の勢いが一時停止したため、その分だけ深く沈まないで済み、助かったと思っている。戦場における生死は紙一重の差で明暗を分けるものである。

薄幸の戦艦 武蔵

 戦艦武蔵は敵航空機の相次ぐ波状攻撃を受け、さながらなぶり殺しにされるように痛めつけられて沈んだ。昭和十九年十月二十四日十九時三十五分、ルソン島ホンドク半島南の北緯一三度七分、東経一二二度三二分、水深八〇〇mの海底に一〇七〇名の乗組員を道連れにして。

 

 武蔵は昭和十三年三月二十九日三菱長崎造船所で起工され、十七年八月五日竣工するまで国家の最大機密に付され、隠密裡に建造された。昭和十六年十二月十六日に竣工した大和と姉妹艦として連合艦隊の象徴と仰がれ、また大艦巨砲主義の一時代を画した。しかし、太平洋戦争は艦隊決戦の時代が終わり航空戦の時代へと移り変わって、完全に時の流れから取り残され、艦隊決戦に備えられた四六cm砲は敵艦に向けては一発も発射することなくその姿を消した。貴婦人を偲ばせるあの端麗な姿を再び海上に現すことはなかった。竣工から数えて僅か八一二日。あまりにも短い生涯であった。武蔵は薄幸の艦であったとしみじみ思う。

 

 夜の海上に投げ出された乗組員は重油の海と戦いながら、何のあてもなく漂流を続けた。戦闘の興奮冷めやらず、「君が代」を斉唱し軍歌を歌いながらお互い元気づけていたがやがてその歌も途絶えがちとなった。と、その時、どこの漂流の集団からか「湖底の故郷」という望郷の流行歌が流れてきた。これを境に生きて故郷の土を踏もうとの思いからか、体力の消耗になる歌声はぴたりと止まり、沈黙の海に星空だけが輝いた。

【絵】貝原浩

(第5話に続く)

*月刊『現代農業』1993年10月号(原題:戦艦武蔵からの生還(4))より。情報は掲載時のものです。

柴田 庫治 しばた くらじ

1922年秋田県羽後町生まれ。故人。1943年、海軍に徴兵される。復員後、農業を営むかたわら、長年にわたり現代農業に寄稿。イナ作名人としても知られ、さまざまな農業技術の開発に没頭した。現代農業1993年7月~12月号に自らの戦争体験をまとめた「戦艦武蔵からの生還」を連載。(写真:赤松富仁)

戦艦武蔵からの生還

●重油の海に漂いながら●出征を祝う酒宴に土足のドブロク摘発員●国のために死ぬことはない庫治、必ず生きて戻れ●ブラジルに渡った兄との約束●秋田弁丸出しの従兵●海軍砲術学校測的科

●不沈戦艦「武蔵」の威容●農村不況の中での巨大戦艦の建造●レイテ作戦●主砲のバカヤロー●役に立たない主砲、艦の命運を握る機銃員

●第三射法●硝煙と赤い曳光弾●飛び散る機銃員の手足、胴体 鋤が飛ぶ、鍬が飛ぶ●巨大な水柱、沸騰する海面●血の海に丸太棒のような戦死者●人力操舵の決死隊への参加●忘れてきた日章旗と千人針

●軍力を持って海に飛び込め?●金モールの参謀たちへの不信●分隊士従兵の任命を拒否●出ない退艦命令、人雪崩となって海中へ●緩衡材となってくれた戦死者、負傷者●薄幸の戦艦、武蔵

●褌で丸太に身体を縛りつける●沈む者にホッとする自分●一世一代の晴れ舞台は重油まみれ、褌なしの丸裸●反転していた栗田艦隊●幹部に吹いた臆病風●部下を置き去りにした将校たち●たった一人の帰還

●一番船倉の420人●立ち上がった巨大な火炎●さんとす丸で起きた惨劇●救命ボートに必死でしがみつく●「生き残るとは悪運の強い奴だ」●戦艦武蔵と大規模農業

テーマで探究 世界の食・農林漁業・環境 全3巻

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