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【農家の戦争体験記】戦艦武蔵からの生還 第5話

8月15日は、平和祈念の日(終戦の日)です。今ふたたび多くの人に読んでもらいたい記事を現代農業の元編集長が選びました。1993年7月号から6回にわたり現代農業で連載された、農家・柴田庫治さんによる回想録「戦艦武蔵からの生還」です。ぜひご覧ください。

褌で丸太に身体を縛りつける

 戦艦武蔵が沈没し、重油の漂う夜の海に投げ出されたが、私は幸い丸太にしがみつくことができた。しかし、丸太には次々と生存者がたどり着き、最後には丸太につかまっている者にまた人がしがみつき、それを振り払う者との間で、小競り合いも見られた。

 

 私は丸太を離すまいと褌(ふんどし)で自分の身体を丸太に縛りつけようとしたが、布部分だけでは短く、褌の緒と合わせてやっと縛りつけた丸太の寸径はかなり太かった。

 

 それにしても、不思議に思われるのは、これほど多くの丸太や角材がどうしてこの海上に漂流していたのであろう。

 

 武蔵はレイテ決戦に臨み、可燃物の木材はすべて処分したはずである。これは、後で聞いた話であるが、艦底には、なおたくさんの木材が積まれてあったという。それは、艦が電撃や至近弾を受けた衝撃により、甲鈑の継ぎに使う鋲が緩み、そこからの浸水に備え、防水蓆(せき)を当て、それを支える支柱として積まれていたものだ。それが度重なる魚雷の命中により、艦底が裂けてそこから丸太が海面に浮上したのである。

 

 幸いというか、艦が操舵不能となり、同一海面をぐるぐる回っていたため、艦の沈没した付近に丸太が浮上していた。これが多くの乗組員の生命を救ったのである。これこそ天の配剤ならぬ天の配材であったと思う。

沈む者にホッとする自分

 一本の丸太に三〇人くらいの人がしがみつくと海面下に沈んでしまう。だから懸命に足で泳がなければならない。だが、時間が経つにつれて体力も気力も衰えてくる。重油混じりの海水を飲みむせかえり激しく咳き込み、やがてゴボゴボと泡を吹いて沈んでゆく。

 

 最初のうちは、しっかりしろなどと励ましていたが、体力も限界に達すると意識が薄らぐ。隣の人が一人二人と沈むと、その分だけ丸太が浮力を増すことだけは分かる。沈む者が出るたびに何となくホッとする自分に気付き、我が心の醜さが折りに触れて思い出され、今でも心の傷として残る。

 

 静まり返った死海に突然「救援隊が来たぞう!」と叫ぶ声を数度聞いた。しかし、それは救援を待ちわびる、溺れる者の幻視であった。私も星明かりに見える水平線のうねりが大船団の如く見え、助けが来たぞと叫ぶ場面もあった。

 

 

 漂流の集団が生きる望みを失いかけた頃、「駆逐艦だあ!」と叫ぶ声が起きた。二隻の駆逐艦が星明かりに艦首にかすかながら白波を蹴立てて近づくのが見えた。それは間違いなく味方の艦であった。静まり返った海上はにわかに活気づき、バンザイと叫ぶ者、駆逐艦と叫ぶ者、その声は死海を生き抜いた者たちの喜びに満ち溢れた声であった。

一世一代の晴れ舞台は重油まみれ、褌なしの丸裸

 私たちの漂流集団に一隻の駆逐艦が近づき、カッターが降ろされた。しかし集団に近づくまでには近寄らなかった。一度に多数の漂流者にしがみつかれれば、転覆の恐れがあったからだ。駆逐艦の舷側の数カ所から、縄梯子が吊り下ろされたが、艦は微速ながら動いている。下手に泳いで近づけばスクリューに巻き込まれると思い、はやる心を抑えた。艦に泳ぎつき、縄梯子を昇り、途中から海上に落下する者も相次いだ。重油のため梯子が滑るのか、それとも体力が尽きたのか。敵潜水艦の攻撃を恐れて静まり返る海上に、派手に水音を立てて海中へと消えてゆく。

 

 艦がわたしの一〇メートルぐらいまで近づいて来た。今だ!縄梯子めがけて泳いだ。運よく梯子に手が届いた。後は渾身の力を振り絞って身体から重油を垂らしながらよじ登った。

 

 私は、その後の人生で苦境に立つたびにこのときの光景を思い出し、自分を励ましてきた。褌さえなくし丸裸の身で、ただ生きるためにとあの縄梯子をよじ登った私自身の姿が他人にはどう映ったか知らないが、私には一世一代の晴れ舞台であったと思っている。

 

 このとき危険を冒して武蔵の生存者の救助に当たってくれた駆逐艦は「清霜」と「浜風」の二艦であった。しかし、清霜はこの日からわずか二カ月後十二月二十七日、中部フィリピン沖で空襲を受け沈没。浜風は翌年戦艦大和の沖縄特攻を護衛して沈没したという。このとき両駆逐艦の生存者救助の艦艇がいたのであろうか。両艦の最期はもっと悲惨なものでなかったかと思い、今なお戦争の惨さを憎む。

反転していた栗田艦隊

 武蔵の生存者を乗せた両艦はマニラに向かった。しかし、途中からコレヒドール島に回航された。理由は生存者総員裸足で丸裸同然であり、誰が見ても敗残兵に見える。このままマニラに上陸すれば現地人に日本の敗色が鮮明となり、反日感情を更に助長するとの判断からであったという。

 

 こうして生存者は当時無人に近かったコレヒドール島に上陸隔離された。このとき乗組員総員の念頭にあったのは、レイテ湾に突入したはずの大和を始めとする栗田艦隊が作戦通り湾内の輸送船団を撃滅することができたかどうかという一点だけであった。しかし、島内では情報が分からず、皆をいらだたせた。

 

 四、五日した頃、神風特攻隊が体当たりで敵艦船多数を沈めたという情報が入った。しかし乗組員からは歓声が起こらなかった。栗田艦隊の動向だけに関心が集まっていたからだ。一〇日くらい経った頃、栗田艦隊はレイテ湾に突入できず、内地に帰ったらしいとの情報が入り、皆はがっかりして沈黙してしまった。

 

 レイテ湾を目前に望見し、栗田艦隊が反転、内地に向けて転身した真相は五〇年を経た今日でもナゾとされている。ただ、二十五日当日のレイテ湾の敵情は、輸送船団が人員の上陸は完了したものの、兵器や食料などの揚陸がはかどらず、湾内には敵船団がひしめいていたという。また、我が方の北からレイテ湾に向かった囮(おとり)艦隊に気をとられ、敵空母部隊や護衛艦隊はそれに誘われて北上し、湾口の警備は手薄となっており、栗田艦隊に絶好のチャンスが待っていたという。

 

 もし栗田艦隊が反転せず湾内に突入、砲火を浴びせたら敵輸送船団に壊滅的打撃を与えることができたであろう。レイテに上陸した敵部隊は武器や食料の補給に支障をきたし、その戦力は半減しその後の比島作戦は大きく様変わりしたであろう。惜しい好機を逃した。

幹部に吹いた臆病風

 不可解ななぞの反転に対し当時を知る識者の話や戦史研究者の間では、栗田中将臆したり、との見方が強い。

 

 栗田艦隊の旗艦は重巡愛宕であったが、二十三日の敵情の魚雷攻撃により沈没された。このとき栗田長官はデング熱にかかっており、高熱の身体で海を泳ぎ小柳参謀長は足にひどい打撲傷を受け、激痛に耐えながらともに救助され、旗艦を大和に移した。そして翌日には不沈艦といわれた武蔵の沈没である。また作戦計画では味方航空隊の援護があるはずであったのに、一機も見えず、来るものは敵機だけであった。加えて無線状態は極めて悪く、連合艦隊司令部との連絡もよく取れなかったという。こうした状態のもとでは、レイテ湾突入の勇気も失せて、転進の名目で内地に逃げ帰ったのが真相であったと思う。

 

 だとすれば、あの「皇国の興廃この一戦にあり」とのZ旗を掲げてレイテに進撃した連合艦隊に神風が吹かず、代わりに幹部の間に臆病風が吹いたとは、何という皮肉な現象であったのだろう。

部下を置き去りにした将校たち

 コレヒドール島に上陸した武蔵の乗組員は副長であったK大佐の名をとってK部隊と名乗り、武器を持たない守護隊としてしばし平穏な日々を送った。食糧不足であったが、山芋を掘り、食料の足しにしながらの生活をした。

 

 十一月の上旬の頃であった。急に隊内が騒然となった。K副長が転勤命令だと称して、側近の将校たちを連れ、部下をコレヒドール島に置き去りにしたまま、一言の挨拶もなくマニラからこっそり飛行機で内地に帰ってしまった、というのである。残った者は、我々はこれからどうなるのだとの不安も手伝って、無責任な副長に怒ったが、後の祭りであった。

 

 気の利いた将校たちは何等かの口実を設けて飛行機で内地に帰って行った。海上便では敵潜水艦の攻撃により内地に無事帰れる船舶はまれな状況であったのだ。残留者は不安な日を送りながら幹部の自分だけ助かればよいとの姿勢に非難を浴びせた。しかし私には将校の正体というものをとっくに知っていただけにさほど驚かなかった。

たった一人の帰還

 十一月の中旬頃であったと思うが、武蔵乗組員の残務整理班から一部の下士官が内地に帰れるとして、第一次帰還者名簿が発表され、点呼が行なわれた。その中に私の名前も呼び出され耳を疑ったが、間違いないと分かり、小躍りして喜んだ。下級兵士は全員現地残留とばかり聞かされていたからだ。

 

 しかし私以外の同期生の名前は一人も呼ばれなかった。後で分かったことだが、私の同期生より以下は全員、現地残留と線引きされた。ただその中で特に戦功のあった者はその限りにあらずとの項目があり、私の場合は砲術学校卒業時に砲術奨励賞を受けたことが認められ同期生の中でただ一人の帰還者に選ばれたという。

 

 現地残留の同期生はその後の戦闘で全員戦死したとされているだけに、この一人生き残ったことがその後の私の人生に大きな負担となって覆いかぶさっている。

 

 十一月二十三日の夕刻に急報が入り、第一次帰還者は本日二十三時マニラ出航のさんとす丸に便乗せよ、との命令が出てマニラ湾の桟橋に急行した。マニラ湾は空襲により沈没した船舶で埋まり、マストが墓標の如く林立していた。

【絵】貝原浩

(第6話に続く)

*月刊『現代農業』1993年11月号(原題:戦艦武蔵からの生還(5))より。情報は掲載時のものです。

柴田 庫治 しばた くらじ

1922年秋田県羽後町生まれ。故人。1943年、海軍に徴兵される。復員後、農業を営むかたわら、長年にわたり現代農業に寄稿。イナ作名人としても知られ、さまざまな農業技術の開発に没頭した。現代農業1993年7月~12月号に自らの戦争体験をまとめた「戦艦武蔵からの生還」を連載。(写真:赤松富仁)

戦艦武蔵からの生還

●重油の海に漂いながら●出征を祝う酒宴に土足のドブロク摘発員●国のために死ぬことはない庫治、必ず生きて戻れ●ブラジルに渡った兄との約束●秋田弁丸出しの従兵●海軍砲術学校測的科

●不沈戦艦「武蔵」の威容●農村不況の中での巨大戦艦の建造●レイテ作戦●主砲のバカヤロー●役に立たない主砲、艦の命運を握る機銃員

●第三射法●硝煙と赤い曳光弾●飛び散る機銃員の手足、胴体 鋤が飛ぶ、鍬が飛ぶ●巨大な水柱、沸騰する海面●血の海に丸太棒のような戦死者●人力操舵の決死隊への参加●忘れてきた日章旗と千人針

●軍力を持って海に飛び込め?●金モールの参謀たちへの不信●分隊士従兵の任命を拒否●出ない退艦命令、人雪崩となって海中へ●緩衡材となってくれた戦死者、負傷者●薄幸の戦艦、武蔵

●褌で丸太に身体を縛りつける●沈む者にホッとする自分●一世一代の晴れ舞台は重油まみれ、褌なしの丸裸●反転していた栗田艦隊●幹部に吹いた臆病風●部下を置き去りにした将校たち●たった一人の帰還

●一番船倉の420人●立ち上がった巨大な火炎●さんとす丸で起きた惨劇●救命ボートに必死でしがみつく●「生き残るとは悪運の強い奴だ」●戦艦武蔵と大規模農業

テーマで探究 世界の食・農林漁業・環境 全3巻

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