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【北海道でリジェネラティブ(大地再生)農業を実践】ダストボウルとターキーレッド その1|レイモンドからの手紙(3)

北海道で、畑を耕さない「大地再生農業」を実践するレイモンド・エップさんが、3歳の孫のあやめちゃんに自身のルーツや半生を綴る。

🔤レイモンド・エップさんが書いた原文(英語)はこちらご覧いただけます

レイモンド・エップ/荒谷明子訳

筆者と、昨年12月に亡くなった母(あやめちゃんのひいおばあちゃん)(2022年撮影)

あやめちゃん

 今日、君がお母さんとキックスクーターで遊んでいるのを見たよ。きっとすぐに一人でも乗れる日がやってくるんだろうね。

 さて、君のご先祖たちがウクライナからアメリカへ移住するときに、荷物と共に持ってきて栽培が広がったターキーレッド小麦が、その後どうしてアメリカの穀倉地帯から姿を消してしまったのか。今回と次回で、いよいよそのお話をしようね。ターキーレッドが姿を消し始めたのは1940年代だったけれど、この物語は1999年のあるお祝いの席での出来事から始めようと思う。

巨大な黒い壁が動いてきた

  それは、君のひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの結婚50周年のお祝いの集まりだった。ジイジとバアバとまだ小さかった君のお父さんや叔父さんたち、それからジイジのお姉さんたちやその家族も集まっていた。ジイジは、ひいおばあちゃんにこんな質問をしてみた。

「孫やひ孫たちに語り継ぎたい出来事はある?」

答えはすぐに返ってきた。

「ダストボウル」

 それはなに?って君は思うかもしれないね。君は会うことが叶わなかったけれど、昨年の12月に亡くなるまで、毎日君のことを想ってお祈りしていたひいおばあちゃんが、そのときに話してくれたことを教えてあげようね。

ターキーレッドの圃場。先祖から引き継いだタネを北海道で播き続ける
ターキーレッドの小麦粉で作ったパンケーキを食べるあやめちゃん

 「1934年の春、私はまだ3歳だった。いつものように姉さんや兄さんたちと食卓を囲んでいたわ。食堂には西に面した大きな窓があって、その窓から母さんが外を見ると、巨大な黒い壁が家に向かって動いてきているのが見えたの。そんなものは見たことも聞いたこともなかったから、それが何なのか誰にも見当がつかなかった。

 母さんは落ち着いた声で、『さぁ、地下室に降りる時間よ』といったけれど、私たちはみんな何か大変なことが起こってると感じとったわ。地下室に降りるのは、竜巻が近づいているときだけだったから。兄たちがキッチンの横の床にあるドアを開けて、私たち全員が小さな地下の部屋へ降りてドアを閉め、じっとしていた。そこは真っ暗だった。やがて風の音が聞こえて、窓ガラスがガタガタと音を立てていた。

 しばらくして風がやんで静かになった。地下室から出てきてみると、テーブルにも食器にも砂埃が積もっていた。何年も後になって母さんは、そのときのことを振り返って話してくれたの。子どもたちを怖がらせないようにと思って行動したけれど、あの黒い壁を見たとき、あぁ、世界は終わるんだと思ったって」

 この出来事が起こる数年前から、アメリカ中西部を干ばつが襲い、大地は乾き切っていたんだよ。収穫できた作物はほんの少しだったから、ひいおばあちゃんの家族は、借金を返すお金も残らないほど困っていた。土地を取り上げられずに済んだのは、彼らの銀行員が同情してくれたからだった。ひいおばあちゃんの家族に限らず、アメリカ中西部のたくさんの農家が同じような、もしくはもっと大変な苦難を経験した。これがダストボウルだよ。

1934年にサウスダコタ州を襲ったダストボウル。同様の黒い土のカーテンがネブラスカ州(筆者の出身地)を横断していった

ダストボウルは人災だった

 草原に暮らすということは、風と共に暮らすといってもいい。風が強い日には、風に向かって身を乗り出したり、風に対して身体を横にして、やり過ごしながら歩くことを学ばなくてはならない。そうしないと吹き倒されてしまうんだ。ごうごうと吹く風を弱めてくれる、樹木さえもない場所だからね。

 でもね、その昔は草原でも風は問題ではなかったし、雨が少ないことも問題ではなかった。1万4000年もの間、人も土も草も動物もその環境に適応しながら暮らしてきたんだ。しかし、開拓民が農耕を始めてわずか70年の間に、大草原はすっかり変わってしまった。

 優しく土を抱きかかえるように根を伸ばし、土壌の表面を緑で覆っていた在来植物たちは、耕耘によってすき込まれていった。輸出用の穀物を太らせるために、土は栄養を奪われ続け、有機物が枯渇してしまっていた。ダストボウルは天災でも天罰でもないと、アメリカ政府の土壌保全学者たちはいった。農民たちが土地を拓き、本来耕作されるべきではない土地で作物を栽培したために起こった、人災だといったんだ。

戦争で使われた技術が農業に

砂埃の吹き溜まりが、まるで雪のように、車や農業機械を埋め尽くす。1930年代のダストボウルでの惨状

 そのことがあって、アメリカ政府は畑の土を守るためのいろいろな政策を始めた。土を保全する大切さを広めようとして、優れた小説家によい農業についての本を書かせたりもした。でも、それは10年ほどしか続かなかったんだよ。

第二次世界大戦で使われた技術を農業に利用する動きが起こって、農薬や化学肥料や大型の農業機械が作られるようになったからだ。作物が病気になったり害虫にやられても、農薬で防除できるようになり、土の機能が落ちて炭素やチッソを固定できなくなっても、化学肥料で作物に栄養分を補給できるようになった。そうやることでますます土は固く締まっていったけれど、戦車を作る技術を用いてトラクタが開発されたから、力で土をやわらかくし、そこに種子を播くことができるようになった。

 同じ頃に一代交配のトウモロコシの種子も開発された。雨が降らない年でも作物が育つように、地中に蓄えられた水を汲み上げるかんがい技術も進んだ。このように、1940年代は伝統的な農耕生活から、工業的な農業経営への大きな転換期となったんだよ。

1939年と40年に発行されたジョン・ディア農場の雑誌。父が子どもの頃から大切に保管していたもので、現在は私の書棚にある

(北海道長沼町)

レイモンドさんが書いた原文(英語)は、こちらでご覧になれます。

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【レイモンドからの手紙3】ダストボウルとターキーレッド
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