この記事は、現代農業2024年1月号に掲載された、アメリカ合衆国ミシガン州生まれの詩人、アーサー・ビナードさんによって書かれたものです。試し読みとして公開中です。
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アーサー・ビナード
「畜生」という日本語をときおり使う。やっていることがうまくいかず、苛立ちの独り言として。また、ごく稀に、ムカッときて相手に浴びせることもある。尻尾に「め」をつけたりして。上品じゃないしポジティブでもないが、「畜生」を声に出せばその音が心理状態とぴったり噛み合う。迫力もあってなんだか気分がいい。語源はサンスクリット語らしい。そもそも「人間以外の生きもの」を指して、途中からののしりの機能が加わったわけだ。
「畜生」といちばん発音が似ていて、表現としての広がりも面白く重なるのは「百姓」かもしれない。
30年ほど前、池袋に住みついて日本語学校に通っていたころ、練馬のNHK文化センターで英会話を教えるアルバイトを見つけた。はじめは電車を利用したけれど、そのうち道を覚えて自転車のペダルを漕いでいくようになった。畑の間を通るところがあって、帰りにその角の無人スタンドで野菜を買い求めるのだった。おじいさんが畑に出ていれば、手を休めてダイコンだのハクサイだのコマツナだのの生育過程を教えてくれた。故郷ミシガンの畑とずいぶん異なる顔ぶれに、ぼくは興味津々だった。
冷たい風が吹いていたある日、スタンドへ寄ってみると、おじいさんは引き抜いたばかりのダイコンを下げて歩いてきた。
「百姓やってると面白いよ、毎年出来がちがうんだ。今年のダイコンはいいぞ」
ぼくは一瞬クシャミの擬声語かと思い、「ハクショーって?」と首をかしげた。
するとおじいさんは「ヒャクショウはファーマーだな、ジャパニーズ・ファーマーのこと」と解説して、ちびた鉛筆で古新聞の余白に漢字まで書いてくれた。
カッコいい新出語が気に入って、機会あるごとに使っていた。3年ばかり経って、ひょんなことで青森放送のラジオ番組に出演するようになった。ラジオカーで弘前のトウモロコシ「嶽きみ」を育てる農家の畑にお邪魔して、会話の中で「百姓仕事」という表現をぼくは口にした。
ディレクターの顔が瞬時にこわばり、コマーシャルに切りかわると「なるべく『百姓』という単語は避けてください!」と注意された。
番組終了後、遅ればせながら和英辞典と国語辞典を引いてみて、「百姓」にののしり機能が備わっていることを知った。3番目の定義に「あかぬけない人や情趣を解さない人」とあった。なるほどアメリカでいうhillbilly(ヒルビリー)と同じだと、膝を打った。
草深い山奥のhillからやってきた田舎臭いBilly(ビリー)という名のオノボリさんをからかう表現である。一方、逆手にとって「オレはヒルビリーだぞ! 文句あるか?」と名乗って前面に出すツワモノもいる。カントリーミュージックにはhillbilly musicというジャンルがあり、あかぬけなくて面白い笑い話をhillbilly humor(ヒルビリー ヒューモア)と呼ぶ。
ファーマーをしっかりやって堂々と「百姓だぞ! 文句あるか?」みたいに名乗れば、とてもサマになる。けれど、百姓仕事にまったく関わらない都会人が上から目線でだれかをそう呼ばわった場合、蔑称になりかねない。遠慮なく「百姓」を口にできるのは、田畑で汗を流している人間。いつかそういう者にぼくもなりたいと思った。
映画『百姓の百の声』が封切られてから、この日本語をさらに掘り下げる機会を得た。広島での上映会に参加して、終了後の交流会ではみんなそれぞれの「百姓」の定義について語ってくれた。
畑仕事のみならず大工仕事、林業、機械の操作と修理も、ともかく必要な作業をこなせる人物こそ本物――そんなふうに「百姓」を捉えている農家が少なからずいることがわかった。百種類ものスキルを、一人で身につけているイメージだ。
ひょっとして、これは江戸時代にはあまりない感覚かもしれない。いっぱい百姓たちが集まって生活のすべてをいっしょに作り、「百姓一揆」もできるほどの共同体だったら、そこまで「一人」を重視しなくてもよかった気がする。
また、交流会の終わりのほうでは、威厳に満ちたベテランの農家のお母さんが「百姓というのはね、文字通り、百の女を生かす立派な男をいうんですよ」と語り、一同を納得させた。
国連という組織をぜんぜん信用しないぼくだが、『百姓の百の声』がきっかけとなり「小農と農村で働く人びとの権利に関する国連宣言」の日本文と英文に目を通した。そこで驚いたのは、原文の英文で「小農」の人びとをなぜかpeasants(ペザンツ)と呼んでいることだった。昔ならヨーロッパの「農奴」はこの呼称をつけられたりしていたが、21世紀においてはめったに耳にしない語だ。手元の英和辞典で「peasant」を引くと、たとえば「小作人」「小百姓」「田舎者」につづき、「がさつな人」「低収入無学者」「とんま」「ばか」など、ののしりを含む表現が列挙されている。
2018年作成のこの国連宣言の執筆者がpeasantのののしり機能を逆手にとろうとして、意図的にあえて選んだのか? それともその部分を無視したのか、そもそも知らなかったのか。ここ数カ月、ぼくは機会あるごとにアメリカの友人知人に印象を聞こうとしている。しかし、みんなにとっては国連宣言の存在自体が初耳なので、いったい国連がなにをねらったのか、表現のニュアンスとしてのpeasantについては、話がなかなかそこまでたどり着けない。ただ、例外なく「まるで中世みたいな雰囲気だね」とはいう。もしや新しい封建時代を告げる宣言なのか、妄想の疑問が残る。
思い起こせば練馬のダイコン畑のおじいさんは、ぼくを「外人さん」と呼んでいた。なんの違和感もなくいつも会話していたが、あのやりとりをもしラジオで流したなら、ディレクターは顔をこわばらせて「なるべく『外人』という単語を避けてください!」と注意したにちがいない。でも、見るからに外人顔のぼくが堂々とそう名乗れば、たぶんだれも文句を言わないだろう。「外国人」より「外人」のほうが力強く、ぼくにはしっくりくる。もちろん尻尾に「め」をくっつけたら、ののしり言葉にはなるが、おじいさんは反対に「さん」をつけて敬称に高めてくれていた。
そうか、ぼくも同じように「お百姓さん」と言えばよかったのか!
二面性というか陰陽性というべきか、ポジティブもネガティブも含まれている言葉は、不思議と魅力的だ。練馬の働き者のおじいさんは「無人スタンド」で作物を売っていたのに、本当はほとんど「有人スタンド」であったのだ。
直売所 今朝の強風 今朝の蕪
Arthur Binard アーサー・ビナード
詩人。1967年、アメリカ合衆国ミシガン州生まれ。90年に来日し、日本でも詩作を開始。2001年、詩集『釣り上げては』で中原中也賞、05年に『日本語ぽこりぽこり』で講談社エッセイ賞、07年に『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』で日本絵本賞を受賞。東京の文化放送で毎週「アーサー・ビナードラジオぽこりぽこり」が放送される。第58回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞を受賞。
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