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【農家の戦争体験記 知られざる満州3】満洲大都市での知られざる悲劇

8月15日の平和祈念の日(終戦の日)にあわせて、今一度読んでほしい『現代農業』の記事を公開します。今年のテーマは、「知られざる満州」。「五族協和」を掲げ、日本が中国東北部を占領してつくった「満州国」。満州国の生還者や「報国農場」について本を上梓した研究者、『満洲 難民感染都市』の著者らによって執筆された記事を期間限定でお届けします。ぜひご覧下さい。

矢島良彰

 今から79年前、旧満洲地域(満洲国及び関東州)にいた日本の民間人155万人は、ソ連軍の侵攻によって未曾有の大惨事に見舞われた。特に奥地に入植していた開拓団は、守ってくれると信じていた関東軍から見放され、筆舌に尽くし難い苦難を強いられ、何万もの人が犠牲になった。運よく難を逃れた人たちは難民と化して奉天(瀋陽)などの大都市にたどり着いたが、ここでも飢えと寒さ、発疹チフスによって多くの命が失われた。

 満洲からの引き揚げについては、集団自決や残留孤児などの悲劇的な出来事は、新聞やテレビなどメディアによって折に触れて取り上げられてきたが、いったん避難した大都市で何が起こっていたのか、総合的な見地から検証されることはこれまでなかった。

 私が大都市での出来事に関心を持つようになったのは、出身地である長野県北部の北山部7カ村が送出母体となった黒姫郷開拓団について調べたのがきっかけだった。黒姫郷は在団者166人の小さな開拓団であったが、避難途上で乳幼児2人を失っただけで最大都市の瀋陽までたどり着くことができた。他の開拓団に比べて少ない犠牲で済んだのは、団長を中心に結束して行動したからであった。ところが、瀋陽で冬を越して帰国するまでの間に6割以上の104人が亡くなってしまった。

黒姫郷開拓団の子どもたち(提供:長崎百合子氏)
黒姫郷開拓団の子どもたち(矢島良彰著『満洲 難民感染都市』より 提供:長崎百合子氏)

 大都市での死亡者が多いことを疑問に思い、さらに調べを進めると、戦後、厚生省が公表した資料に行き当たった。それによるとソ連軍が侵攻してから戦闘を停止するまでの死者約6万人に対して、それ以降引き揚げるまでの間に18万人が亡くなっていた。その多くは大都市であった。大都市でいったい何が起こっていたのか。その疑問が2021年3月にNHK―BSで放送した「満州 難民感染都市――(前編)知られざる悲劇/(後編)祖国への脱出」を製作する動機となった。

 満洲の最大都市・瀋陽で何が起こり、人々はどう闘ったのか。先行する研究はほとんどなく、番組製作にあたっては開拓団など保護を求めて流入した難民と救済にあたった都市住民の双方から証言と手記を集め、さらに資料を発掘して事実の解明に取り組んだ。

ソ連軍の侵攻ルートと満蒙開拓団を含む日本人居住地
ソ連軍の侵攻ルートと満蒙開拓団を含む日本人居住地(矢島良彰著『満洲 難民感染都市』より)

 ところが取材を始めた20年早々、思いも寄らない事態に直面した。新型コロナウイルスの大流行である。日本中が恐怖に包まれ、取材は中断を余儀なくされた。感染症は今回の番組で検証した終戦直後の満洲でも大流行した。感染症の流行は過去の出来事と思い込んでいただけに驚くと同時に、当時の人々が感じた恐怖を期せずして実感することになった。

 感染症に加えて、ソ連軍兵士による略奪や暴行に戦々恐々とする瀋陽の街に、難民の群れが続々と流入してきた。難民が収容されたのは窓枠や壁板、さらに床まで剥ぎ取られた小中学校などの施設で、疲労困憊の果てに食料不足によって次々に倒れた。

 番組の取材によって明らかになったのは、瀋陽の居留民会が食料や暖房の支援を開始したのは終戦から3カ月も過ぎた11月中旬になってからだった。すでに朝夕の気温が氷点下にまで下がり、飢えと寒さで多くの人が犠牲となり収容所の庭には遺体の山が築かれた。なぜ支援が遅れたのか。それは、資金不足の所為だった。救済しようにも食料や燃料を調達する資金はなく、いくら市民に協力を呼び掛けても資金は集まらなかった。

 誰もが必死になって生き延びようとするなかで、最悪の事態を迎えることになる。それは、本来は助け合わなければならない日本人同士が対立し、互いに非難する事態を招いたことである。発端は些細な出来事であった。「一般市民から難民に対する非難の声として、難民が三度三度天丼を食っているとか、与えた金で夜酒を呑んだとか、恵んだ衣類を売り飛ばして菓子を食うとか」。噂が市民の間を駆け巡り、難民との対立を招いた。支援の遅れは寄付が集まらなかったことによるが、いつ帰国できるか目処が立たない状況にあって、自分や家族のことを優先せざるを得ない事情があった。

 戦争を経験した日本人の誰もが二度と戦争をしてはいけない、と固く信じて戦後を生きてきた。また、戦後の日本は自衛以外の戦いを禁止する憲法の下で平和を築いてきた。第二次世界大戦の反省から生まれた国連憲章では、武力による紛争解決を禁止すると定め、戦争のない世界の実現を目指してきた。

 ところが、ロシアによるウクライナ侵攻は、そうした平和への歩みが幻想であったことを実証した。主権国家に向けてロケット弾が撃ち込まれ、戦車軍団が国境を越えて侵攻する理不尽な事態が現実となったのである。

 市民の日常生活にロケット弾が撃ち込まれるという事態はパレスチナも同じである。壁やフェンスで囲まれ、「天井のない監獄」といわれるガザ地区では、食料や燃料、医薬品などモノの搬入がいっそう厳しく制限され、食料不足や劣悪な衛生状態による感染症によって危機的状況に直面している。

 そうした時代であればこそ、79年前の旧満洲で暴力が支配し感染症に怯える事態に直面したこと、そして日本人同士が対立する結果を招いたことを、決して忘れてはならない。

 その詳細については、自著『満洲 難民感染都市―知られざる闘い―』(農文協刊・1980円(税込))を参照していただければ幸いです。

著者

矢島良彰(やじま よしあき)
1948年、長野県生まれ。明治大学卒業、87年映像製作会社テムジン設立。以来、数多くのドキュメンタリー番組を製作してきた。平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

*月刊『現代農業』2024年9月号(原題:満洲大都市での知られざる悲劇)より。情報は掲載時のものです。

満洲 難民感染都市

知られざる闘い

矢島良彰 著

旧満洲の奉天ではソ連軍侵攻から逃れた難民が飢えや発疹チフス等の感染症で倒れていく。その実態と背景を貴重な証言からたどる。