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【農家の戦争体験記】戦艦武蔵からの生還 第1話

秋田県・柴田庫治

 8月15日の平和祈念の日(終戦の日)にむけて、今こそ多くの人に読んでもらいたい記事を、現代農業の元編集長が選びました。1993年7月号から6回にわたり現代農業で連載された、農家・柴田庫治さんによる回想録「戦艦武蔵からの生還」。ぜひご覧ください。

 昭和十九年十月二十四日、太平洋上の戦況を一挙に挽回すべく派遣された、連合艦隊の主力であった栗田艦隊に所属する戦艦武蔵が、決戦場レイテ湾突入を前にして、敵航空部隊の息つく間もない波状攻撃に、不沈艦隊の名も空しく無念の涙をのんでシブヤンの海に沈没した。乗組員二三九九人のうち生存者は四三〇人ほどでしかなかった。

重油の海に漂いながら

 武蔵の乗組員であった私は、当時海軍一等水兵、最下級兵士であった。

 海軍兵でありながら、海で泳いだ経験のなかった私は浮上する丸太にしがみつき、褌《ふんどし》を外してそれで身体を丸太に縛りつけていた。どうしても生きて故郷に帰らなければならぬ理由があったからだ。しかし、重油の漂う海は無情である。頭から被さる重油に覆われた波は、目も耳も鼻も口もすべてを塞ぐ。手で顔を拭くようになでれば、指の間からベトベトと重油がこぼれ落ちる。タンカー事故にみる海鳥と同じである。

 時間が経つにつれ油は暖かい海流にもまれ、気化する。それを呼吸するので眠気を誘う。同じ丸太にしがみついていた戦友も力尽きて次々と沈んでゆく。命の綱と頼んでいた褌も波にもまれてちぎれて失っていると知ったとき、死は目前に迫ったと思った。

 せめて故郷の方を向いて死のう、そう思って北極星を探し求めた。南海に見る夜空は美しかった。満天の星空にさらに趣を添えるように上弦の月も昇っている。武運拙く《つたな》名も知らぬ海底を永遠の墓場として沈みゆく者に、天はせめてもの弔いにと美しい夜空を手向けてくれたのだろうか。探し求める北極星はなかなか見当たらない。北斗七星は故郷で見る夜空と違い、水平線下に一部隠れるのだ。やっと見つけた北極星の輝きは、胸をかきむしるように望郷の思いをかきたてる。

 「必ず生きて戻り、また百姓をやるぞ!」

 そう誓ったあの日の出来事がまざまざと目に浮かんだ。ナニクソ生きてみせるぞ。私は渾身の力を振り絞った。

出征を祝う酒宴に土足のドブロク摘発員

 あの日の出来事とは、昭和十八年八月三十一日、明日、横須賀海兵団に徴兵として入団する私の門出を祝って親戚・知人がわが家に集まって、ささやかながら酒宴を開いてくれたときの事である。この頃は戦局も厳しさを増し、田舎に居ても事態は容易ではないことが察しられた。今現役で海軍兵として出て行くことは、帰らぬ門出であると思っていた。それだけにその日の宴は、今生の別れの宴であり、万感の思いを胸に抱きながらも努めて明るく振舞おうとそれぞれが盃を傾けていた。

 ところがその時、思いもよらぬ出来事が起きたのだ。

 税務署のドブロク摘発員二人がわが家の茶の間に土足で入り込み、門出の祝い酒として飲んでいたドブロクの一升ビンをわしづかみにして、密造酒現行犯の証拠品として押収したのである。

 集まっていた親戚・知人は皆あっけにとられ声もない。わが家は貧乏こそしていたが、人に恨まれるようなことは何一つしていない。確かにドブロクをつくったことは国法に違反するかもしれない。しかし、お国の為に決死の思いを胸に秘めて生家を出て行く息子の武運長久祈願の祝い酒にと、飯米を工面して造ったドブロクを、なぜいま検挙しなければならぬのだろう。明日からは働き手の息子を戦争に狩り出され、人手不足で更に貧乏しなければならぬ両親に罰金を納めることは容易なことではないのだ。官憲はどこまで弱いものをいじめれば気がすむというのだろう。

 私は、武運長久を祈願して寄せ書きしてくれた日章旗と千人針を手にして、税務署員の足元にひざまずいて、「明日は決死の覚悟で海軍に入る身です、どうか今日のところは見逃してください」と必死の思いですがりついた。しかし、「君は何も心配せずに出発してください」ただそう言っただけで、その目は蛇のように冷たかった。

国のために死ぬことはない庫治、必ず生きて戻れ

 いよいよ住み馴れた故郷との別れの時は来た。昨日の官憲の仕打ちに無念の思いで一睡もせぬ目に朝の光はまぶしかった。近所の人たちは、昨日の災難を心から同情してくれた。

 「息子を戦地に送るというのに『エンペ』(ドブロクのことを当地ではそう呼んだ)まで押さえられてなんぼ困っているべ」

 口々にそう言って見送りにきてくれた。だが、沈んだ空気は吹き飛んだ。それは、母の実家の主人の万歳の音頭に始まる。

 「庫治は、戦争に行って死んでくるところであった。しかし昨日税務署にエンペを押さえられたことで、生きて戻ることに決まった。税務署の役人は国の役人である。国のために命を捧げる出征軍人の家に来て、餞別は出さずに罰金をとるとは何事だ。国に義理立てする必要はなくなった。生きて戻れ。死ぬようなことになったら昨日の仕打ちを思い出して頑張れ。庫治万歳」

 この音頭に応えるようにウォーという熱気がわが家に立ち込めた。

 「生きて戻れよ!」「死ぬでないぞ!」「待っているから」…

 口々に叫ぶ真心のこもった叫び声の一つ一つは強く私の胸を打つ。溢れようとする感激の涙を懸命に抑えながら、私は応えた。

 「俺だば、必ず生きて戻る。そして、また百姓やるから待ちでいでけれ」

ブラジルに渡った兄との約束

 「生きて戻ってまた百姓やるから」私の口から出た言葉には深い思いが込められていた。

 昭和九年東北地方は酷い凶作に見舞われ、特に高冷地の私の地方では稲作は全滅状態であった。その時、わが家で長男で私より一〇歳年上の兄が、このままでは一家餓死を待つようなものだ。ブラジルに渡って一稼ぎしてくるからと言い出した。両親を始め、当時八十三歳の祖母も泣きながら思い止まらせようとした。

 だが、兄の決心は固く、「一〇年我慢してけれ、必ず小作地を買い上げるだけの金を持って帰ってくるから、ブラジルさ行かせてけれ」と頼んだ。一〇年我慢すれば小作米を納めなくてもよい百姓になれる。それは夢のような話であった。こうして兄の渡伯が許されたが、兄はブラジルへの出発の間際に私を呼んで言った。

 「庫治、俺のいない間はお前が身代わりになって働いてけれ。小作田は手放しては駄目だぞ」と。

 当時私は小学校六年生であった。それから私は兄との約束を守り、七反歩の田んぼを耕しながら帰りを待った。しかし太平洋戦争が始まり、ブラジルは敵国となって兄は帰国できぬ身となっていた。そして、私も海軍に入り帰郷する日はないだろうと覚悟を決めていた。私の気がかりは小作地のことであった。だが昨日のドブロク事件で私の心は吹っ切れた。

 「また百姓のやれる日が必ず来る」

 そんな予感が胸にふつふつと涌いてきたのだ。

 当時日本には絶対沈まない軍艦があると聞いていた。よし!生きて戻るためにその軍艦に乗るんだ。私は決意した。

 これが戦艦武蔵を意識した初めだった。

秋田弁丸出しの従兵

 横須賀海兵団で三カ月の新兵教育を終えて、海軍省勤務となった。当時海軍省は今の農水省のところにあった。向いの今の外務省の場所には当時は旧国会議事堂が解体されずに残っていて、ここが宿舎になった。私は海軍省の軍令部付伝令として、同じ海軍省の建物内にある東京海軍通信隊の暗号部で解読した電報を軍令部参謀に届ける役目であった。

 ここでの思い出がある。

 海兵団から選ばれて七人の同年兵が海軍省に入ったのだが、その時の試験で私が一番成績がよかったそうだ。そのため分隊長従兵になる決まりであった。しかし分隊長は「柴田は、秋田弁丸出しで何を言っているのかさっぱり判らん。あれの従兵は駄目だ」と断られた、と聞いて内心ほっとした。将校というものが、どうもあの時の税務署の役人の面影と重なって見えてならなかったのだ。これからの勤務地で従兵の口がかかったら「私は、秋田弁丸出しで従兵は駄目です」と断ることだ。よい口実を見つけたぞと思った。後にこのことが私の生命を救うことに繋がるのだから、運命というものは、不思議である。

海軍砲術学校測的科

 海軍省勤務は、砲術学校に入るまでの現地研修のようなもので、二カ月半後、横須賀海軍砲術学校の測的科に入った。ここを二〇番以内で卒業できたら念願の戦艦武蔵に乗艦できるだろうとの情報を聞いた。不沈戦艦に乗り組み、生き残って故郷に戻り百姓をするんだ。その思いは厳しい海軍生活にも決して揺らぐものではなかった。しかし、砲術学校は私のような一等水兵ばかりでなく上等水兵、水兵長等が、一緒に学ぶところで、海軍経験の浅い者にはなかなか厳しいところであった。それに旧制中学卒業生もいて、高等小学校卒の学歴で上位卒業は難しいと判ったが、不沈戦艦に乗り生き残るために必死で勉強した。

 卒業のときは、約五〇〇人の測的科を首席で卒業し、砲術奨励賞と記念の時計を頂戴した。田舎の小学校でも首席など貰ったことがなかったので、とまどったが、これで不沈戦艦に乗れると喜んだ。しかし武蔵乗艦を希望したら、担任の教員に、上位卒業者は学校に残り教員助手となって新入者教育の手助けをすることになっているから海上勤務は許さない、と言い渡された。

 生きて戻り、百姓をするためにと一生懸命勉強し不沈戦艦に乗るのを夢見ていたのに、何という結果になったのだろう。私は、がっかりした。しかしこの機会を逃したら二度と不沈戦艦に乗ることができないような気がした。

 「教員お願いです。どうか武蔵乗艦を許可してください」

 私の血相変えての訴えがあまりに真剣であったのか、私をじいっと見ていた教員が「柴田、お前はどこまでも変わった奴だなあ。皆が学校に残りたいというのに…。手を尽くしてみる。ただ武蔵に乗ったら学校で習ったことは何一つ役立つことがないぞ、それほど最新鋭の艦だぞ武蔵は」と言った。

 間もなく武蔵乗り組みを命じるとの令が出た。念願叶った私は、これで生きて戻れると思った。

【絵】貝原浩

(第2話に続く)


*月刊『現代農業』1993年7月号(原題:戦艦武蔵からの生還(1))より。情報は掲載時のものです。


著者

柴田 庫治 しばた くらじ

 1922年秋田県羽後町生まれ。故人。1943年、海軍に徴兵される。復員後、農業を営むかたわら、長年にわたり現代農業に寄稿。イナ作名人としても知られ、さまざまな農業技術の開発に没頭した。現代農業1993年7月~12月号に自らの戦争体験をまとめた「戦艦武蔵からの生還」を連載。

 

【写真】赤松富仁


戦艦武蔵からの生還