8月15日の平和祈念の日(終戦の日)にあわせて、今一度読んでほしい『現代農業』の記事を公開します。今年のテーマは、「知られざる満州」。「五族協和」を掲げ、日本が中国東北部を占領してつくった「満州国」。満州国の生還者や「報国農場」について本を上梓した研究者、『満洲 難民感染都市』の著者らによって執筆された記事を期間限定でお届けします。ぜひご覧下さい。
東京・朝倉康雅

いつしか月日は流れ、終戦の日、1945(昭和20)年8月15日より、70年以上も過ぎてしまった。多くの先輩、友もすでになく、一人であの日の前後のことを思い出して書いてみる。
終戦前夜
満州東京報国農場は、45年春以来、幹部男子は軍隊へ召集され、残ったのは婦女子と、その年に来たばかりの男子であった。そして8月12日、日本男子全員(若年者を除く)に招集令状が来た。
その日の午後、農場でとれた野菜を出荷しに、2台の馬車にて小林晟君と新京(満州国の首都、現在の中国吉林省長春市)へ向かった。農場では馬鈴薯やキュウリ、カボチャやスイカ、小麦やダイズ、高粱《コウリャン》(モロコシ)を人馬一体となって栽培していたのだ。
途中、南嶺(新京の南嶺地区)で馬車が1台、日本軍に徴集され、残りの1台にて消費組合に向かうも、事務所は無人であった。すでに「2~3日でソ連軍が侵攻してくる」という話もあり、南へ避難してしまっていたのである。夕刻、新京にいた東京報国農場の場長宅へ。秋山場長と小川さんに会う。
2人には召集令状が届いており、「(召集されていない)男子はいざとなった時には、女子、子供らをまとめ日本へ帰るよう」懇々と言われた。赤い夕陽が沈む中、前途を考えると弱冠17歳の私は涙も出ず、無言の別れであった。
15日、終戦の放送を聞いても、私は、日本は負けたのではなく、一時停戦したのだと考えた。日本の負けは信じられなかったのである。他の隊員にしても、同じ考えであったと思う。その日、農場は物品の売り払いや、帰国のための南下の準備で大混乱であった。
新京では、放送が終わると同時に各所に銃声が鳴ったという。満州国軍の反乱である。

「報国農場」は食糧増産のため、また開拓移民の拠点として、1943年より満州各地に約70カ所設立された。自治体や団体などが各農場に送り込んだ人員は計約4600人(終戦時)。大人たちは現地で軍に召集され、残ったのは13~18歳程度の若者(少年少女)がほとんどだった。
日本軍が現地人(満人)から奪った土地で食糧増産に取り組むも、多くは寒さや飢えで過酷な生活を強いられ、終戦時にはソ連軍や満人らの略奪にも遭って、計1000人以上が死亡、約650人が帰国できなかったといわれる。
①の「東京報国農場」(計約400ha)には、都下市町村より青年男女計64名が勤労奉仕隊として送り込まれた。朝倉康雅さんもその一人。②の「東京農大湖北報国農場」は東京農業大学によって設立され、拓殖科の学生が実習と称して送り込まれた(第2話参照)。
暴徒からの逃避行
16日朝より、農場は暴民(満人)に取り囲まれ、いつ襲撃されるか時間の問題であった。当時の農場の人員は52名。15歳以上の男子は14名で、木銃や鎌などを手に身構えるも、戦うことなどできない。
その時、新京の建国大学の学生であった王発氏が懸命の説得に当たってくれ、重大な事態は避けることができた。彼の言葉はわからなかったが、数百の暴徒へ日本人を助命するよう説得に当たる、その姿が今でも目の裏に浮かんでくる。
夜になって、農場の物品倉庫の鍵を渡し、暴徒がその中の物品を奪い合いしている隙に脱出。一人の不明者もなく脱出できたのは、全員が一つの建物に閉じ込められていたのが幸いしたのかもしれない。暗黒の街道を新京へと進みつつ、振り返って見ると農場の建物は火の海であった。王発氏はその道中も、われわれの先頭に立って、満軍との交渉に当たってくれた。
早朝、王発氏の連絡により、満軍の兵倉へ。そして日本軍の兵舎へ、さらに室町(新京駅近く)の橘重五郎氏の倉庫へ移動した。彼は、農場の建築工事をした人物で、われわれ避難民のために倉庫を開放してくれたのだ。
終戦直後は、10日か20日もすれば、日本に帰ることができるのではないかと思っていた。しかし、8月15日午後を境に、満州は外国になってしまったのであった。新京の町は騒然として、殺されたと思われる日本人の死体を、紅十字の人たちが馬車に乗せて何処かへ運ぶ。町には死臭が漂い、明日のことなど頭の中に一片も浮かんでこなかった。
帰国までの1年
橘さんの倉庫に落ち着き、男子は食糧・衣類の調達に向かう。満蒙開拓団の倉庫に物品があるのがわかり、あらゆる品物を、身につけて運んだ。身につけていなければ、道で奪われてしまうのであった。夏の日に着て持ち出した防寒服、今も手元に残る思い出の品である。
新京には北満州からの日本人難民が続々と南下してきた。着のみ着のままの姿であった。家族ばらばら命からがら逃げてきた人たちであるが、自分たちの力ではどうしようもなかった。
日本人会ができ、女子は新京へ入ってくる難民への炊き出しへ行き、そこで馬鈴薯の皮をわざと厚く剥き、持ち帰って食糧としていたのであった。街頭にはソ連兵が多く、女子は男装し、丸坊主になっていたが、出歩くのが危険であったため、男子がついて行った。
8月下旬になると、男子は三中井百貨店(新京で日本人が経営していた百貨店、後日接収され、中国人経営となった)へ仕事に行くようになり、店員から雑役まで、なんでもよく働いた。
その冬、馬場俊子さん、吉永セキ子さん、町田たき子さんが病死する。無念。少しでも栄養をと思い米やスープを食べさせたりしたのであるが、どうすることもできなかった。さぞ日本に帰りたかったことと思う。
春、暖かくなるも、公園には日本人の子供の遺体があり、悲しく目も向けられなかった。
待ちに待った引き揚げは、46(昭和21)年7月19日。南新京を夕刻出発し、8月8日に長崎県の佐世保に上陸、同12日夕刻に家に帰りついた。
帰国後のこと
終戦以来、都市近郊の農家は、食べる物はなんでも売れた。正常のルートでなくても金にすることができ、ヤミ金融で成り立っていた時に、将来は果実の時代が来ると思い、51(昭和26)年にナシづくりを始めた。農業試験場に指導していただき、導入以来70年余り続けてきた。農業一切無知のため、苦難の道であった。
途中、70(昭和45)年より妻の人工透析のため、また相続等のため苦難の時を過ごし、現在に至った。幸い健康に恵まれ、大過なく今日まで生活できたのである。感謝している。自分の体は自分で守るんだと深く信じている。
妻は86(昭和61)年、透析16年でついに力尽きた。妻亡き後、月3回の弓道を始めた。60歳より短歌にも取り組んだのであるが、年をとるとともに体力や気力の衰えを感じ、90歳を過ぎて短歌も車もやめ、行く所もなく、妻も友もなく、今は一人黙々とナシ畑の主である。
報国農場でのことを今考えると、何も知らない少年が、貴重な体験を得たと有り難く思う。人生に、一つの信念を与えてくれたと信じたい。生き残った一人として書き残しておかなければならないと思い、記したものです。
我が道はこれぞと思い始めたる梨作りも
早50年に過ぎぬ
幾ばく事残れるや残せと今日もまた我が道を行く
(東京都日野市)
*月刊『現代農業』2019年9月号(原題:満州報国農場から生還し、ナシ農家として生きる)より。情報は掲載時のものです。